《第439号あらまし》
 全日検第二次裁判闘争終結、職権和解成立
 西神テトラパック、また、工場閉鎖
 〔連載〕思いつくままにA
 リストラ110番報告


全日検第二次裁判闘争終結、職権和解成立
闘ってよかった、本当に

全日検神戸支部労組副委員長 北川 伸一


エピローグは突然に

物語りの結末は時には人々の予想を超えて突然やってくるものかも知れない。2000年春より起こった、全日検神戸支部における労使の紛争は裁判所の職権和解を双方が受ける、という形で終結した。国敗れて山河あり、と言うことばがあるが、足かけ5年に亘る神戸支部労使の激突の結果、失った物は何か、そして何が生まれたのか。振り返るにはまだ早過ぎるが、少し立ち止まって考えてみたい。


主客逆転

全面勝訴。2002年8月23日、神戸地裁は「50%ものカットは酷である。原告全員に全額を支払え」という判決を下した。被告全日検協会は体裁を繕うためか、逡巡し迷走をしながらもこの判決を受け入れた。しかし、既定事実であるかのようにためらいもなく新たな合理化を提案。それは、新賃金制度(賃金体系の根本的変更、従前賃金と単純比較して約30%カット)そして56歳以上の組合員に対して自宅待機(1か月)・一時帰休(3年間)という事実上の整理解雇であった。私たちは勝利の余韻に浸る間もなく、新たな合理化攻撃に対して防戦を強いられることになった。


動揺そして逆提案

「あの判決は何やったんや」「協会はわしらの闘いを無にするつもりや」「一時帰休3年間いうことは、体のええ首切りやないか」。組合員の間に動揺が走った。特に高齢の組合員にとっては屈辱的な提案であった。と同時に一時帰休中は新賃金の60%の保障(労基法26条に基づ休業手当)でしかなく、まさしく死活問題であった。協会は港(事業所)毎の「収支」による賃金格差(神戸は50%カット)を前訴で否定されたことを逆手に取り、そして彼ら流の教訓の上に立って、今度は同じ支部内に年齢等による差別・分断を持ち込んだのである。「収支改善」という仮面を被った神戸支部労働組合潰しであることは明らかであった。私たちは職場論議を繰り返し、評議委員会、そして臨時大会を開き労組としての「対案」を決定した。それは「新賃金という賃金制度の変更は認められない。ただし現行賃金の20%カットまでは応じる。また一時的にどうしても人員調整をするというなら全従業員を対象に1か月ローテーションの自宅待機とすること」以上を持って支部長に英断を求めた。「勝利判決」という成果を得ながらの苦汁の選択であったのは言うまでもない。


再び立つ

「熟慮を重ねたが結果的に協会提案でやるしかない」英断を求めた私たちに対し十年一日相変わらずの愚断であった。所詮本部協会会長(旧運輸省天下り官僚)の傀儡でしかなかったのか。失望と怒りを胸に私たちは再び裁判を決意。最も被害が大きい一時帰休者21名を先頭に42名を選抜し再提訴したのであった。時、2003年5月13日。初夏を過ぎ神戸地裁は緑に囲まれていたが、私たちの心は……。


渡る世間に鬼はなし

この私たちの決断に対し、周りの反応は素早かった。前裁判終結後も地元兵庫の支援連絡会は体制を維持しいつでも再始動できる状態を保っていた。もちろん弁護団の先生方も同様である。また、原告・組合員を支え共に闘ってくれた家族もネジを巻きなおした。

署名・カンパ・集会、それぞれの課題を成功させるために私たちも再始動。支援の人たちも一緒だ。組合員間に「差別・分断」というクサビを打ち込まれ、闘いに対する温度差があったのは事実だが、行動をすることによってその差は埋まっていった。組合員は健在だ信頼しよう。そして、それしかないのだから。


全国支援共闘結成、闘いは全国へ

踏まれても蹴られても果敢に立ち向かう、そんな愚直なまでの私たちの姿に心を動かしてくれたのか闘いに新たな局面が訪れた。一争議の支援としては異例とも言える傘下構成員60万人を超す全日検神戸闘争全国支援共闘の誕生である。12月11日に準備会を持ち、結成日そして第一次中央行動の日程を確認した。翌2004年1月初旬より「今まで他人に頭を下げたことがない」という原告・組合員を含め、東京を皮切りに神奈川・愛知・大阪、そして地元兵庫・神戸(全国主要5大港所在地)と、行動成功のためのオルグを開始した。2月27日、延べ500名を超す全国の仲間たちが東京に結集し、全日検協会の監督官庁である国土交通省そして全日検協会本部への要請、結成集会と大成功を収めた。引き続き6月2日、第二次中央行動を同様の規模と内容で成功させ、国土交通省、全日検協会本部を世論で追い詰めていった。また、闘いは国会の場でも取り上げられ、3月24日参議院国土交通委員会において、日本共産党大沢たつみ参議院議員(当時)が全日検神戸問題を追及し、石原大臣(当時)をして全日検協会を「適切に指導する」旨の発言を引き出したのであった。


闘いは佳境へ

また、口頭弁論も回を重ね、5月27日(第7回)には私自身も原告側証人として法廷に立ち、膝の震えを隠しながらも早期解決を訴えた。そして、8月12日第9回口頭弁論(被告協会側証人尋問)終了後、裁判長より和解の打診がなされた。双方真摯に受け止める、とし解決に向けての舵が切られたのであった。

一方、全国支援共闘代表と全日検協会本部との「自主解決交渉」が実現。8月24日より開始され、世論を背景に協会を追い詰めていった。このことは全日検協会にとっては予想外の展開であったに違いない。労働者を馬鹿にするとこういうことになる、ということだ。


昨日、今日、そして未来へ

和解協議と自主交渉、どちらも有利に進めるため私たちは再度全国オルグへ。早期解決を求める全日検協会宛ての要請書(団体署名)は僅か2か月の間に1,500筆を越えた。そして、10月26日、裁判所による「職権和解案」が出された。弁護団を通し事前に私たちが要望していた内容がほぼ盛り込まれた「勝利」といえる物であった。しかし、あくまでも「和解」であり、全面勝利はありえない。当然、原告・組合員から不満も出る。私たちは二度の全体集会を開き、また一時帰休者との懇談を重ね、「和解」に応じることを決断した。全日検協会は既にこの和解に委ねることを決定していた。切歯扼腕(全日検協会本部談)しながらも……。

ここに5年に亘る闘争が終結した。しかし、残された課題はある。和解で示された猶予期間は一年(一年間は賃金体系は変えてはならない、という条項)。失ったものも少なくない。この間、後ろ髪を引かれながらも職場を去り労働組合から去った人たちがいる。力不足であったことを痛感する。だけど私たちは胸を張ろう。一定の賃金カットは余儀なくされたけど賃金体系の変更は許さなかった。整理解雇に等しい一時帰休を止めさせ、元の身分で元の職場に復帰させたこと。賃金破壊、雇用破壊が当たり前のように押し付けられている社会状況の中で、見事にそれを跳ね返したことを。そして、神戸という一地方から全国闘争へと発展させたことを。

私たちの闘いを支援してくださった全ての皆さん、本当にありがとう。そして、名もなく貧しく傲慢な私たちを献身的に支えてくださった、羽柴・増田・白子・大槻、各先生方ありがとうございました。労働者は、この世の中の仕組みが変わらない限り闘い続けるしかない、という教えを胸にこれからも奮闘していきます。昨日より今日、今日より明日、明日よりまだ見ぬ未来の夢を信じつつ。

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西神テトラパック、また、工場閉鎖

JMIU西神テトラパック支部 中村 伸治


去る、9月27日の労使協議会において、西神テトラパック鰍ヘ、2005年末をもって西神テトラパック鰍清算し、御殿場テトラパック鰍ノ統合する。したがって西神工場は閉鎖する計画を発表し、そのための協議を申入れて来ました。

テトラパックは多国籍企業で、西神テトラパック鰍竚苴a場テトラパック梶E日本テトラパック鞄凾ナ形成する日本テトラパックグループは従業員約700人で申告所得約50億円もある牛乳やジュース等の紙容器を製造・販売している企業です。

覚えておられる方もおられるかと思いますが、テトラパックは5年前にも西神工場の閉鎖を発表しました。92年からの不当労働行為事件で8度も断罪された会社の大儲けの中のリストラ工場閉鎖としてどんどん支援の輪は広がり、会社は社会的に追い詰められ、この計画を強行するのは無理と考え雪印事件を口実に計画の撤回を発表するという形で、西神工場を存続させることが出来ました。

今度の計画は、雇用の確保すら確約しておらず、経営者の利益追求のための犠牲を一方的に従業員と従業員の家族に押し付けるものであり、さらに関連する企業やそこで働く労働者の生活にも多大な影響を与えるもので、到底認めることは出来ません。

テトラパックはこの計画について協議すると言いながら、協議申入れ後1カ月も経たないうちに、私たちが『認めない』と表明したにもかかわらず計画の『前準備』と称して準備工事を強行してきています。

会社は2000年8月に締結した『工場集約化計画を撤回し正常な労使関係確立のもとで、西神工場の継続・生産強化をはかるための協定書』等の中で、『…必要な設備投資と顧客開発を実施し、生産体制をいっそう強化することを約束する。』としながら、この4年間に御殿場工場に設備投資を集中するなど西神工場の閉鎖準備を着々と進めてきたと思われます。

私たちは、多国籍企業の横暴を許さず、この地域で暮らす労働者の生活と雇用を守り将来展望を築くため闘っていきますので、ご支援よろしくお願いします。

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〔連載〕思いつくままにA

元民法協代表幹事 和田 邦夫(元兵庫県私立学校教職員組合連合)


「60年安保」の高揚のなか組合結成の波

1964年4月、神戸常盤女子高校に社会科の教員として勤務し出しました。第1次ベビーブームの子どもたちが、高校入学する時期でした。先達によって「60年安保」の国民的運動の高揚の中で、私学にも組合が出来始め、1960年7月には、現在の兵庫私教連の前身、兵庫県私立学校教職員組合協議会が、それまでに結成されていた10校のうち7校(甲南・松蔭・成徳・神港・育英・村野・神戸女子短大)で結成されました(すこし遅れて神戸女学院・芦屋学園・甲子園学院も参加)。こうした動きに励まされ、その後、私がつとめ出すまでに、森学園(神戸学院高校)・睦学園(須磨ノ浦女子高校)・熊見学園(神戸星城高校)・啓明女学院・滝川学園・山手学園・神戸野田・神戸常盤・甲陽学院などで組合結成が相次ぎました。

多くの私学経営者は、近代的な雇用契約関係が理解できず、理事長や校長に楯突く労働者(教職員)は、企業破壊者として排除の対象でした。ましてや徒党をくんで(労働組合をつくって)、「要求」するなどもってのほかだったのでしょう。学園経営者はただちに学校を守る会や親睦会などと銘打った第2組合をつくり、組合弾圧・組合員差別に乗り出しました。私がつとめた常盤には、ごく少数でしたが、幸いにして労働組合がありました。決して快くは思ってなかったかもしれませんが、直接的な組合攻撃や、人身攻撃・差別などは経験せずに済みました。民法協40年のあゆみには、1960年代では、私学の争議・権利攻撃のうち、神戸野田樋口先生解雇(職場結婚差別=1965年)、啓明女学院岸本先生解雇・塩原学園時間講師解雇(1967年)、塩原学園時間講師解雇(1969年)があげられています。こうした解雇事件として裁判で争うまでには、労働組合づくり、労働組合つぶしが繰り返され、地方労働委員会を活用した不当労働行為救済を求める地労委闘争が頻繁でした。


あいつぐ組合つぶしの攻撃

啓明女学院(当時は三宮の繁華街のどまん中、現在の東急ハンズの山側に学校がありました)では、1961年に学院長による専制支配からの民主化を求めて組合がつくられました。学院長は神戸市会議員でしたが、直ちに組合つぶしの攻撃をかけました。弾圧に反対する共闘会議を結成し、生徒も立ち上がる中で、院長退陣要求を決定し、交渉を重ねて学院の譲歩を勝ち取り、一応の終結を見ました。しかしその後も、非常勤講師の解雇や組合つぶしが重ねられ、啓明だけでなく兵私協の中心となって活動していた岸本先生は、譴責や出勤停止処分などの後、1965年10月に解雇され、裁判闘争で闘わざるを得なくなりました。この闘争の渦中にも、学内での活動の中心になっていた原谷先生への差別人事や、団体交渉の開催を巡ってのトラブルで刑事事件デッチ上げなどもありました。

神戸野田の経営者は、1965年10月、樋口睦先生に対し職場結婚を理由に「無期限無給休職」という事実上の解雇を強行しました。すでに職場に組合はありましたが、夫婦が同一職場で働く状況はあまり一般的ではなく、無給休職処分・解雇不当での職場合意ができず、組合としての支援体制は確立できませんでした。しかし背景には、職場での組合たち上げの中心的立場にあった樋口さん夫妻に対する経営者の嫌悪感があったことは否めません。闘いの支援体制は、全国的な経験に学びながら「守る会」を組織し、裁判傍聴を始め運動財政を作っていきました。1967年8月に、地位保全の仮処分決定が出ました。女性差別・公序良俗に反するとの判断ですが、職場に戻るのはもっと後のことになります。しかしこの後、私学の職場では、職場結婚・同じ職場での共働きが増えていきました。

このほか塩原学園・北原先生解雇(1966年2月)やその後の3人の先生の解雇(1968年)、睦学園・上畠先生解雇(1968年)など、やや長期にわたる解雇撤回闘争とともに、解雇攻撃、職場包囲・団体交渉・解雇撤回で早期に解決した職場もありました。


弾圧闘争をたたかう体制が作られる

岸本先生や樋口先生は正規の教員でしたが、第1次ベビーブーム後の生徒急減期を見据えた非常勤教員や試用期間満了に伴う解雇事件も多く、闘い方の工夫も必要でした。こうした経験から、個人加盟の兵庫私学単一労組が組織されました。また、兵庫私教協にも「反弾圧闘争資金」会計を独自につくることにもつながり、不十分ながらその後の弾圧闘争をたたかう体制が作られていきました。裁判闘争を含むねばり強いたたかいの結果、そのすべてを勝利的和解で終結し、1970年代の初めには、兵庫私教協が抱える解雇撤回闘争はなくなりました。啓明のたたかいでは米田軍平先生・前田修先生、野田は木下元二先生・米田先生、塩原は藤原精吾先生、睦学園は野田底吾先生などを中心に、弁護団を組織して勝利に導いていただいたと記憶しています。

1962年の兵庫民法協の結成は、全税関の三田免職事件、神戸市交通局・若林事件、神戸証券取引所事件、関電ビラ事件、その他の多くの事件が闘われる中で、不当な弾圧と闘う経験と相互支援の輪が広がって、私学の闘いにも大きな経験と教訓を蓄積していきました。

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リストラ110番報告

弁護士 増田 正幸


12月4日午前10時から午後4時まで、恒例のリストラ110番を実施し、弁護士延べ7名で対応した。

当日は、日本労働弁護団が全国25カ所で「全国一斉リストラ・残業110番」を実施した。全国の相談件数の合計は650件であったが、兵庫県は6件であった。最近の実績と比較して、全国的には相談数に大きな変動はないが、兵庫県は激減である。6件の内、新聞報道で電話番号を知ったという人が2名、インターネットで知ったという人が4名であったが、新聞報道がわずか1紙しかなかったようで、PR不足が減少の主たる原因であると思われる。

 
2002年 : 6月1日 全国604件 兵庫33件/12月7日 全国753件 兵庫32件
2003年 : 6月7日 全国695件 兵庫34件/12月6日 全国434件 兵庫14件
2004年 : 6月5日 全国707件 兵庫26件/12月4日 全国650件 兵庫 6件

相談の内容は以下のとおりである。

性別 年齢  業種  身分
担当業務
社員数 組合の
 有無
組合員
か否か
相談の種類       相談内容
 男 26 卸売業 正社員
 営業
20〜30  ×   × 長時間労働 8時30分から24時まで働きず
めなのに、残業代は月20時
間が上限
 女 30 印刷業 正社員
 編集
 40  ×   ×   配転 妊娠中で来年2月から産休に
入る予定であるが、2月は非
常に忙しい時期なので今から
後任の業務を引き継ぐためと
称して、廃止予定の部署に配
転を命じられた
 男 30
後半
廃棄
 処理業
正社員
 運転手
 ×   × 残業代不払い 5時30分から9時頃まで仕事
があり、有給もないが、残業
代が時間どおり支払われない
。選挙運動を強制される
 女 52 加工業 正社員
 事務
 90  ○   × 退職強要 退職勧奨され断ると部屋に閉
じこめられ3時間にわたって
退職に同意するまで帰さない
と言われた
 女 30  病院 正社員
 看護婦
 35  ×   ○   解雇 自律神経失調症の既往歴を
採用時に言わなかったことを
理由に解雇され、地域労組に
加入して交渉したが組合が来
年2月に退職に同意した
 男 57 事務用品
 卸売業
正社員   3  ×   ×   解雇 会社が倒産のおそれ

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