《第457号あらまし》
 宝塚映像争議報告
 第44回定期総会
     報告書 @
     報告書 A


宝塚映像争議報告
たたかいはまだまだ続く

宝塚映像労組執行委員長 三浦 紘


はじめに

宝塚映像労組の撮影所つぶし・移転縮小「合理化」強行に対するたたかいは、移転提案から5年を経過し、「宝塚映像争議の和解調停確認書」に調印することになりました。これから、この「確認書」を実行あるものにし、宝塚映像を映像制作会社として事業を継続させ、不安なく雇用が確保され、労使間が正常化された中で業務が運営される本来の和解状態を作っていかなくてはなりません。

この争議は、労働者が解雇されたり、賃金不払いがあったり、思想信条によって差別されたとか原因で起きた争議ではありません。

多くの市民から「宝塚の文化を破壊しないでもらいたい」「阪急電鉄は、企業の身勝手で、宝塚の街破壊、文化の破壊を強行しないでほしい」との声があがるなか、阪急電鉄と宝塚映像の経営者が、宝塚映像の撮影所の移転を強行したこと、宝塚ファミリーランドを企業都合で強行に閉園したことにはじまる争議だったのです。宝塚市に、宝塚市民に、自らの行動に対し、その説明を行い、それぞれが納得する中で、実行しないと企業の身勝手と言われても仕方がない行為であったと思います。

なぜ移転を強行したのか、そのためにどのような準備をしてきたのかを検証し、私たち労働組合は、これに対して何をしてきたのか、総括し認識しておく必要があります。

私たち宝塚映像は、自覚するにせよしないにせよ、宝塚の街の中で、宝塚映像としての役割を果たしてきました。もちろん、宝塚の文化・映像発信基地として、宝塚の街の構成員としてその経済的影響などがあります。私たちが映像制作を続けていくということは、宝塚市民に対する責務でもあるのです。

これまで、文化薫る街・宝塚といわれてきたのが、行政は、都市再開発という名で、街の破壊を続け、阪急をはじめ企業の撤退に歯止めをかけることなく、宝塚の街は大きく変貌しました。

私たちは、「宝塚ファミリーランドを存続させる会」の運動で、多くの市民との共同の運動を取り組めました。今年行われた市長選挙においても、党派を超えた人が「市民運動」としての第一歩を刻んだ選挙になったと思います。これをどのように発展させていくのかが多くの市民から期待を寄せられています。私たちは、運動の教訓を、宝塚を市民本位の街・文化薫る街にするため、活かしていかなければなりません。

《経過報告》

今回の争議の背景

阪急資本は、大都市大阪・神戸の後背地として、豊かな自然環境を有する宝塚を「企業文化」都市として、「宝塚歌劇」「宝塚ファミリーランド」「宝塚映画」を配置し、宝塚の街の変貌を目指し、阪急電鉄沿線を「宅地開発」し、阪急のイメージのアップと収益の大きな拠点としてきました。 この間、阪急資本は、地元自治体・宝塚市民の多額の税金を長年投入させ「阪急本位」の街づくり進めてきました。

ところが、阪急資本は、阪急ブレーブスを手放すなど、企業の文化をはじめとする付加価値や地元の想いなどを無視し、阪急資本にとって「うまみ」がなくなると、企業の身勝手さを露骨に顕してきました。「宝塚映画」も映画産業が「斜陽」となる中で、数次にわたって縮小・人減らしが行われ、「宝塚映像」に縮小再編されました。

とくに、95年1月17日の大震災の後、阪急資本は「千載一遇のチャンス」とばかりに、リストラ策を一挙に推し進め、阪急グループの再編と全社的「合理化」を推進するなか、宝塚映像やファミリーランドの閉園に向けた動きも、地元や宝塚のフアンの声を無視し、強行されました。

宝塚映像・撮影所つぶし強行移転の経過は、関西テレビ番組のドラマから情報への切換え(93年10月)その番組制作発注の打ち切り(95年3月)第1次本社移転案(98年2月)が提案されました。移転理由は赤字と番組制作の発注がないとしています。実際は会社側が受注を自ら拒否したことと、業務の引継ぎをやらなかった人為的なものでした。

今回の「希望退職」強行(01年7月)本社移転強行(01年9月)はこの一連の仕上げです。

阪急資本と宝塚映像の経営者による撮影所つぶし、移転縮小「合理化」の暴挙に抗議し、日本のそして宝塚の映画・映像文化を発信する「撮影所と職場の確保」をめざす宝塚映像争議のたたかいを物心両面で支援する(共闘会議会則第2条)ことを目的として、2001年9月、「宝塚映像支援共闘会議(略称)」が結成され、今日まで、4年8ヶ月が経過しました。

この間、共闘の皆さんのご支援で、兵庫県地労委・神戸地裁・中労委への公判傍聴、宝塚映像に対する要請行動、親会社阪急電鉄への要請・包囲行動・ターミナル宣伝行動などの取り組みを進めてきました。

昨年、中労委が結審し、9月中労委の命令が出されようとする時期、全阪急労協・会長の和解斡旋案が提出され、その案をベースに協議が続きました。支援共闘は、私たちの労使間協議を見守るという態度を取りました。

今年の2月になり中労委の方から和解に向けた働きかけがあり、中労委の労働者委員・使用者委員の意見を聞き、4月12日に全阪急労協・会長案をベースにし、労使間で宝塚映像争議の和解調停確認書に調印することになりました。

1.支援共闘結成までの経過
(1)宝塚映画から宝塚映像へ

1971年、宝塚映画は107名の希望退職者募集を行い、83名が応じました。

1982年、再建策と称して、宝塚映画は閉鎖し新会社を設立、業務を継承させること、従業員は全員会社都合による退職、新会社の人員61名の内53名を宝塚映像の従業員から再雇用するとの計画を発表し強行しました。

その際、会社は組合の執行委員長を含む6名の組合員を再雇用者の名簿から除外し、6名に対して解雇通告を行い、新会社・宝塚映像鰍ノ移行しました。6名(後、3名は取り下げ)は宝塚映画および宝塚映像に対し地位保全仮処分を申請し、1984年10月3日、宝塚映像における3名の地位を認める決定が出されました。その後、本訴において、1986年12月26日、和解が成立しました。組合は、1987年、名称を宝塚映像労働組合と変更しました。

(2)宝塚映像に移行後

宝塚映像に移行後、従業員の努力と労働条件などを我慢することで、宝塚映像の決算は黒字となりました。しかしこの後阪急電鉄と宝塚映像の経営者は、

・テレビ番組のフィルム撮影をVTR撮影に変更。

・阪急電鉄提供の番組を「ドラマ」から「旅の情報番組」に変更。

・多くの専門的技術を生かす仕事がなくなり、その技術者を駐車場管理その他の業務に配置転換。

を押しつけてきました。実は、このことが、阪急電鉄が宝塚映像の労働条件を支配してきたことの実証になると考えていました。

こうした時、1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生、阪急電鉄はこれを口実に、宝塚映像との間にあった「番組一本体制」の約束を破り、番組の提供を打ち切ったのです。

これにより、宝塚映像の収入は大幅に減少されただけでなく、阪急電鉄に対する賃貸料の負担だけが残りました。さらに、阪急電鉄の要請で、

・宝塚ファミリーランドにプールを建設するその敷地確保のため、美術倉庫、木工場をつぶし、その跡地にテレビステージを移転させました。

(3)第一次移転提案

1998年、春闘妥結後、宝塚映像の本社を大阪の天神橋6丁目に移転したいとの提案がされました。

【私たちの見解】

・「移転」については経営の健全化案のひとつとして協議する。「移転」について反対するものではない。

・映像制作会社(撮影所)としての設備、機能、人材を確保し、今後の映像制作発展につながる案なのかを判断基準にする。

この協議が続き、2000年2月に、当時の久國社長は「移転」については今後発言しないと団体交渉で回答された。この後、社長が交代し、藤田常務が社長に就任しました。

阪急電鉄においては宝塚ファミリーランドについて検討する「構造改革推進チーム」が設置されました。これが、2002年4月の「宝塚ファミリーランド閉園発表」につながります。

(4)第二次移転提案

2001年7月10日、それまで移転について匂わせていた「移転」案を、春闘の「回答にあたって」という文書で、「希望退職の実施について」とともに提案してきました。宝塚映像労組は、事前協議を尽くすよう要請し、移転については詳細に提案すること、経営指針を明確にすべきだと申し入れました。

【移転案の骨子】

・今後番組制作はしない。

・全従業員を営業に配置する。

私たちは、第一次移転提案時の見解を確認し、宝塚映像に提案を詳細に、具体的にして協議できるように申し入れました。しかし、宝塚映像は協議をする前に社報で掲示し、団体交渉を通告の場とするなど不誠実な対応が続きました。

(5)移転強行

2001年9月29日、団体交渉を終え、夕刻執行委員会を開いているとき、大型トラックによる機材や書類などの搬出が始まりました。

2001年9月30日、多くの支援団体、弁護士、個人が参加するなか、移転強行について抗議集会を開き、宝塚映像の経営者に抗議を行いました。そして、その場で『宝塚映像・撮影所つぶし移転縮小「合理化」反対闘争支援共闘会議』が結成されました。

争議支援にあたって、当初、次の獲得目標を設定し、共通認識としました。

・阪急資本を世論と運動で包囲し、「映像つぶし」を断念させ「映画・映像制作企業」として再生させる。

・宝塚市・兵庫県など自治体と市民、労働者と阪急が「話し合い」の場を設け、「第3セクター」方式による撮影所再開の施策・計画づくりをめざす。

・阪急資本「企業文化」の身勝手をストップさせ、「撮影所移転」「ファミリーランド閉園」「宝塚大劇場」のオーケストラ奏者削減などを許さず、撮影所・宝塚歌劇・手塚治虫記念館と美しい自然環境の宝塚のまちを生かした「文化薫るまち」づくりのたたかいとして発展させる。

2.支援共闘結成後の取組み
(1)「宝塚ファミリーランドを存続させる会」の運動について

2002年4月、マスコミを通じて、90余年の歴史を持つ「宝塚ファミリーランド」を2003年4月7日に閉園すると阪急電鉄が発表しました。これによって、阪急が「撮影所強行移転」を急いだ背景が、誰の目にも明らかになりました。2002年7月、私たち宝塚映像労組、宝塚地区労連など労働者・労働組合・地域の民主団体・広範な市民が結集する「宝塚ファミリーランドを存続させる会」が発足、その事務局を宝塚映像労組が引き受け、存続を求める署名運動が展開されました。

さらに、その署名を持って阪急電鉄に対する要請行動は10回を重ね、閉園までに集約した署名は17万筆にのぼりました。

宝塚ファミリーランドをめぐる署名運動は他の市民グループでもさまざま行われました。それを合わせると30万筆になりました。

この力が宝塚市議会での全会派一致の存続決議、「存続を求める市会議員有志の会」の立ち上げ、宝塚出身の国会議員による「存続を求める超党派国会議員連盟」(自民、共産、社民)へと発展しました。このことが自治体を動かし、阪急電鉄への大きな圧力になりました。

しかし、市長選挙、市議会選挙での好意的な候補の落選、総選挙での「超党派国会議員連盟」の3議員の引退、落選などにより、国・自治体による阪急電鉄への横暴に対する規制の動きが鈍くなっていきました。

(2)波状的な阪急包囲行動

@ 阪急電鉄沿線での宣伝行動は、106回を数え、2003年11月13日以降は毎月第2、第4木曜日を定例の茶屋町行動とし関西MIC、大阪労連の支援を受け、継続させることができました。

A 阪急電鉄本社要請行動、包囲行動も延べ6次にわたり成功させることができました。

B 「日本映画を考える宝塚市民の会」を立ち上げ、ソリオホールにおいて、「市民フォーラム・日本映画の再生をめざして」を開催し、多くの映画人、映画ファンが集まり、宝塚における映画文化から、日本の映画へと話し合われました。この「宝塚市民の会」の顧問に宝塚市長(当時)が就任されるなどの広がりをみせました。

(3)「文化のつどい」の開催

支援共闘会議は、2005年6月18日、2005年12月10日と2回にわたる「文化のつどい」を開催しました。宝塚の文化として今日に至っている音楽、映画、落語に触れ、多くの市民が宝塚文化について考えるきっかけになったと思います。今後もこの取り組みを、市民運動として発展させることが求められています。

(4)地労委・地裁・中労委闘争

@「労使協議の一方的打ち切り、不誠実団交」と「阪急電鉄の支配介入不当労働行為」の救済を求めて、宝塚映像労組は地労委に救済申し立てをしました。(2001年10月18日)しかし、この救済申し立ては、不当にも退けられました。(2003年11月4日)直ちに中労委に再審査申し立てを行っています。

A 宝塚映像(阪急電鉄)は神戸地裁・伊丹支部に「組合事務所明け渡し請求」訴訟をしました。(2002年2月25日)

宝塚映像は、すでに本社が移転され、業務上、組合員の移転も終了しており、混乱を避けるため、新社屋内に「組合事務所」を移しました。

B 中労委に関しては、2004年9月6日に結審、この1年の間に命令が出される予定でした。この間、中労委に対して、公正な判断を求める団体署名が1675筆に至りました。そして、2005年春、全阪急協・会長より労使の和解調停確認書が提示され、これについての協議がされ、中労委は命令については、その協議の結果を待つことになりました。

【この時点における和解調停確認書に対する私たちの見解】

・宝塚映像を映像制作会社として、「経営方針を明確にし、従業員の不安をなくす」という事項に関しては評価する。

・労使間の交渉者に関する制約などは労組法に抵触する。

・名目は以下にあれ、強行移転による迷惑料については考慮されるべきだ。

(5)中労委の働きかけ

2006年2月になって、中労委も命令をいつまでも放置しておけない。和解の道は考えられないのかとの連絡がありました。

私たちは、全阪急協・会長案についての上記見解を伝えました。

中労委として宝塚映像労組の見解を確認され、全阪急協・会長との調整、および阪急電鉄との調整に入られました。そのうえで、

・全阪急協・会長の確認書がベースになる。

・金銭は名目にこだわらない。

・和解の場所は中労委。

以上の条件が明示され私たちは中労委に、和解について、一任することを伝えました。

2006年3月31日、中労委労働者委員、中労委使用者委員、全阪急労協会長、阪急電鉄との協議で、

・金銭を条件にする余地は無い。

・無条件で、あの文書で和解すべきだ。

・組合事務所の備品を貸与することは出来る。

・協定は労使間ですべきだ。

以上の内容が動かず、労働者委員より「4月5日を目途に協議し返事をしてもらいたい」と、協議は打ち切られました。

私たちは、次の事項について論議しました。

・和解調停確認書についてこの時点でどのように評価するのか。

移転強行時、「番組制作はしない」「従業員全員が営業」といっていたのが、今までの運動で、「ドラマ制作に努力している」「映像制作についての方針を明確にする」と映像制作に前向きな姿勢になっている。さらに、「事前協議」などについては評価できる。そして、今後の運動に活かし役立てることができる。

労使交渉の制約など、労組法に抵触する事項については、労使間協議において、労組法を遵守させていくことができる。

以上を確認し、今後、以下の方針について議論を重ねました。

・中労委の命令を受け、行政訴訟を含むたたかいを継続させていくのか。

・宝塚映像が映像制作を続ける経営方針を明示し、従業員の不安を解消させる、事前に協議をするという内容を実現させていくのか。

以上の内容を論議し、この和解調停確認書を受け入れることにしました。

宝塚映像労使は2006年4月12日、阪急電鉄労組・事務局に於いて和解調停確認書に調印、その後、宝塚映像労組は、中労委への申し立てを取り下げ、争議状態は解かれました。

今後はこの確認書に基づいた労使協議が始まります。

3.たたかいの到達点
(1)到達点

@ 宝塚ファミリーランド閉園と併せて意図していた「映像つぶし」を阻止し、縮小させたとはいえ映像制作の仕事と雇用を確保することができた。

A 労働者と市民の広範な共同の運動をとおして、阪急による「街破壊」に反対し、宝塚の街の再生を求める「文化のつどい」など市民運動の土台を築いた。

B 宝塚ファミリーランドの閉園後、地域破壊の「跡地計画」に一定の歯止めをかけた。

この到達点が築けた要因は

@ 労働委員会での闘争が不利な状況の中、弁護団、兵庫労連・全労連近畿ブロック・関西MIC・映演労協などなど広範な支援を結集し、阪急に対して、大衆的な包囲と集中行動を反復したことです。

A 宝塚ファミリーランド閉園反対の市民運動との結合による阪急への社会的包囲網の広がりができたことです。このことは、「撮影所閉鎖」と「ファミリーランド閉園」とが宝塚の「地域文化」「地域経済」破壊になるとの市民の中で関心をたかめていきました。

《今後の方針》

@ 和解調停確認書に基づき、宝塚映像の事業と雇用を将来に向け継続させていくこと。

A 宝塚映像の労使関係を正常化すること。

B 宝塚映像労組として、宝塚の「地域文化」を映像制作で支えていくこと。

これらを進めていくために

@私たちの労働組合としての役割を果たす努力が必要になります。

・「和解調停確認書」を実効あるものにするため、映像制作について、継続させていける部署と人員の確保を含め、労働組合としての要求を明確にしなければなりません。

・会社と対応できる組合の基礎を確立させるため、組合規約の見直しをし、民主的に強化することが必要です。

・組合財政の確立と強化を目指した方針を具体的にし、意思統一することが重要です。

A 宝塚映像労組は映像制作者集団として、地域に根ざした運動に取り組みます。

・労働組合としても、映像制作に取り組むことが求められています。そのためには組合員以外のOBの支援と協力の関係を持たなければなりません。

・また、関西のマスコミで働く人たちで組織している「プロダクション・スコーポ」やフリーの人たちとの協力共同の取り組みも必要となります。

・組合として、技術の継承と発展について学習し、実現させる取り組みが求められます。

B なお、「宝塚ファミリーランドを存続させる会」の運動を引き継ぐこれからの市民運動として、「文化のつどい」の継承と発展が求められます。

・私たちは、宝塚文化の一翼を担っています。今まで、多くの市民の支援で宝塚映画から宝塚映像へ引き継がれ、今また、新たな局面を迎えています。

・宝塚映画が果たしてきた役割は私たちが考えている以上に、経済的にも宝塚の街づくりに影響を及ぼしてきました。このことを再認識する必要があります。

・現在も、市民から求められている、宝塚文化の担い手としての自覚を考え、宝塚の街を「文化薫る街」とする「文化のつどい」など運動の中心になることが求められています。

・宝塚の街づくりを市民本位にしていく、その文化の支えてとして、私たちは常に考えることが重要です。

・私たちは、映像制作だけではなく、映画の上映運動にも積極的に参加し、映画の普及に努めなければなりません。

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第44回定期総会
報告書 @

神戸交通労働組合 須多 正裕


2006年7月8日の午後2時より、シーパル須磨において民法協「第44会定期総会」が開催され、のべ25組合・団体、49人が参加しました。事務局長の増田氏(神戸あじさい法律事務所)の司会進行のもと、代表幹事の鳥居氏(全港湾)より主催者を代表しての挨拶があった後、「労働審判制度」に関する模擬審判劇が行われました。

「審判制度」とは、『労働審判官(裁判官)と労働関係の専門家である労働審判員2名で組織された労働審判委員会が、個別労働紛争を3回以内の期日で審理し、適宜調停を試み、調停がまとまらなければ、事案の実情に応じた柔軟な解決を図るための判断(労働審判)を行う』といった新しい紛争解決制度で、2004年4月1日からスタートしました。この制度の仕組み等について、理解を深めてもらうことを目的に、事務局弁護士・幹事らが労働裁判官・労働審判員・申立人・相手方等に扮しての寸劇が行われました。計3回の期日における「審理」の内容を各自が好演。不当解雇を主張し、職場復帰を要求する申立人と、解雇の正当性を主張する相手方の意見がかみ合わず、白熱した展開となり、最終的には、両者に歩み寄りが見られなかったため、調停は不成立。「雇用関係は継続・給与(延滞金を含む)支払義務あり」の労働審判が提示され、「勤務成績不良・業務指示違反等を理由とする解雇事件」の模擬審判劇は終了しました。

引き続き午後3時からは、瀬川弁護士(神戸あじさい法律事務所)による「労働法の危機(西谷敏先生の分析)」の特別報告が行われました。

まずはじめに、「日本的企業社会は、労働力の確保を目的に、正規社員の長期終身雇用等の制度により労使双方でその価値を共有していたが、バブル経済の崩壊以後、景気低迷により労働力に余剰が生じるといった労働環境の変化が発生するとともに、『有期雇用』等を主とする労働法制の改悪が実行された。格差社会が広がり、経営者はもちろんのこと労働者の立場についても、『勝ち組・負け組』に分別されようとしているとの見解もある。ただ、その実態としては、正規社員は非正規社員(負け組)へと転落しないように必死に働いており、非正規社員はといえば、疲れ果てた正規社員(勝ち組)を横目にしながら、自らも将来展望を見出せないまま怠惰な労働を行っており、このように、仕事に追い立てられる労働者と、やる気の無い労働者が存在することとなったが、何れの労働者についても『勝ち組』と呼べるものではない。」等、「日本的企業社会とその変貌」についての話があった後、「日本の労働組合の大半は、ユニオンショップ制により組織を維持してきたため、闘わない労働組合として近年過ごしてきた。また、正規社員を中心に組織を構成してきたことから、非正規社員の増加により組織率は低下し、より一層の弱体化を招く結果となった。一方、財界の意向を反映する形で、『労働者派遣法』の改正や、『労働契約承継法』が次々と成立する等、労働法制も再編成(規制緩和)されてきたことにより、労働組合並びに労働法制の双方とも、労働者保護の機能を著しく低下していくこととなった。」等、日本の労働組合の特徴と、1990年以降の労働法の機能低下についての解説があった後、「『今後の労働契約法制のあり方に関する研究会』の報告では、『解雇の金銭的解決制度』の設定について触れられているが、不当解雇であっても金さえ払えば職場復帰をさせなくても良いといった、『金で首切りを合法化する制度』を実現しようとしており、労働者としては決して容認できるものではない。西谷先生は、労働組合の法規制に対する課題としては、非正規労働者を均等待遇する法整備の確立が必要であるとの見解を示されているが、それは即ち、労働運動としての『最低賃金引き上げ』の闘いに繋がることとなる。非正規労働者の組織化による非正規労働者との連携も当然のことながら必要で、労働者全体の利益を見据えての運動の展開が求められている。」とのまとめがあり、午後4時に「特別報告」は終了しました。

午後4時から、荒井氏(神戸市職労組)と永島氏(兵庫私教連)の2名を議長に選出し、総会の議事に入りました。はじめに、増田氏より、会計年度時期の変更を主な内容とする「会則改正案」の提案が行われた後、事務局の萩田氏(中神戸法律事務所弁護士)より「情勢(改憲をめぐる動向・規制緩和に晒される労働法制分野・労働法制分野におけるその他の動き)」、増田氏より「活動報告並びに活動方針(本年度の基本方針・組織活動・課題別活動等)」、本上氏(中神戸法律事務所弁護士)より「2005年度決算報告(05.8/1〜06.5/31)」「2006年度予算案(06.6/1〜07.5/31)」の提案が行われた後、一括審議が行われ、報告・議案について満場一致で承認・可決されました。

その後、増田氏より「2006年度役員体制案」についての提案があり、拍手により承認されたのち、特別報告として、新日鉄争議団の井原氏・宝塚映像労組の三浦氏・川崎重工争議団の坂本氏の3者から闘争終結にかかる経過と支援に対する謝辞等についての報告がありました。

最後に代表幹事の長淵氏(甲南大教授)から閉会挨拶が行われ、午後5時20分に「民法協第44回総会」は終了しました。

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第44回定期総会
報告書 A

東熱労働組合 鈴木 義一


総会は、鳥居代表幹事のあいさつで始まり、北朝鮮のミサイル発射が改憲の動きに影響があるなどの話しがありました。次に、労働審判制度がスタートし普及・定着させる活動として弁護士と幹事組合による模擬労働審判が行なわれました。内容は、急阪デパートに店舗を出している港ブランド社神戸店店長の高本知子が解雇され申し立てを行なったもので、最初に労働審判官と労働審判員よる労働審判委員会を行い内容について話し合いを行い、その後第一回目の審理が始まり、客と2回のトラブルと始末書について相手方、申立人の話しを聞いて調停を試みますが、申立人は、神戸店での職場復帰を望み、相手方は、解雇は有効で職場復帰はありえないと意見が分かれ、2回目の審理では、申立人、相手方に雇用継続の条件を出してもらいましたが話し合いによる解決ができず審判官より解雇は不当、他店へ配転、賃金は店長手当を削るという調停案を検討してもらって3回目の審理を行ないましたが調停が成立せず審判となり労働審判の告知が行なわれました。

1、申立人が相手方との間の雇用継続上の権利を有する地位にあることを確認する。

2、相手方は、申立人に対し平成18年1月末日からこの労働審判の確定するまでの賃金として1ヶ月23万円の賃金の支払いを確認し、これを申立人の方に支払う。

3、相手方は、前項の賃金に対し申立人に年6%による賃損害金を支払う。

審判は、2週間以内に異議の申し立てがないと判決と同様の効力を持つ。2週間以内に異議申し立てを行なうと本訴が始まり労働審判でのやり取りは証拠として使えない。質問の回答ですが、本訴の裁判官は労働審判官だった人が裁判官にはならないということでした。

次に瀬川弁護士による特別報告「労働法の危機(西谷敏先生の分析を中心に)」があり内容は、日本における企業社会は正社員の長期雇用が主で企業と労働者が協調があり企業は余裕があった。1990年以降バブル崩壊と共に規制緩和が始まり長期不況のなか派遣労働などの不安定雇用が増え、労働組合も機能低下していて活動はベースアップ中心。労働法も労働時間の基本8時間労働制が崩れた。さらに労働契約法制の導入が検討され、労使が対等に労働条件を決することが出来るとなっているが、労使対等はありえない。法改正の内容は会社側が一方的に有利、組合の課題としては、非正規労働者の組織化、連帯が必要、日本の労働者はストライキをしない、ストライキも必要ではないかなど労働法の問題点などの報告がありました。

議案に入り増田事務局長より総会の時期をずらすために会計年度を変更する必要があり会則改正案がだされ承認されました。萩田弁護士より自民党の新憲法草案発表による改憲の動き、規制緩和からの新自由主義への動きによる労働法制分野の動向などの報告がありました。

活動報告と活動方針は、増田事務局長が担当しニュースは10回定期的に発行したが現在兵庫県の大きな事件が解決し記事に困っている、好評であった和田さんの「思いつくままに」を冊子にした。ホームページは非会員の相談などもあったりしているがもう少し活用できるようにしていく、学習活動では今年も労働法の連続講座を行なう、又、執行委員会などでのちょっとした出前講座も行なっていく、地労委問題は、女性候補者を立てることも検討している、基本方針としては、草案は労使とも反発をしていたが、労働法制の改悪に対する取り組みをしていく、始まったばかりの労働審判制度を普及定着させる活動を行なう。

労働判例の報告は時間の関係で議案書を読んでもらうことで省略し、本上弁護士より決算報告がありました。

特別報告は、新日鐵賃金差別事件、宝塚映像労組事件、川崎重工賃金差別事件3つの報告がありました。

最後に長渕代表幹事の締めのあいさつで総会は終了しました。

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