《第483号あらまし》
 神東塗料不当解雇事件
     〜障害を理由とする解雇は許されるのか〜
 兵庫青年ユニオン〜波〜
     結成1年を振り返り

神東塗料不当解雇事件
〜障害を理由とする解雇は許されるのか〜

弁護士 濱本  由


1.はじめに

2007年2月21日、「40年近く勤めた会社から解雇された」と、田中善廣さんという50代の男性が事務所を訪れました。田中さんは途方に暮れた様子で、時折会社に対する怒りを滲ませながら何があったのかを話し始めました。

田中さんが勤務していたのは、神東塗料株式会社という塗料メーカーです。

2.解雇予告

2007年2月20日、いつもどおり仕事をしていた田中さんは、突然上司に呼び出され、「座る仕事も与えたが、田中さんは立って移動するときによくこけるので、みんなに精神的な迷惑をかけている。会社には座ってする仕事はもうない。会社は今まで充分田中さんのためにやってきた。会社はボランティアではない。」「田中さんがけがをしたら会社の責任になる。田中さんは、会社できれいに仕事できる状態じゃない。」「会社としてはもう使うことはできない。明日からこなくていい。」等と言われました。「僕に会社を辞めろということですか?」と田中さんが聞き返すと、「退職の理由には三つあります。一つは自己都合退職、二つめは懲戒解雇、三つめは普通解雇。田中さんの場合は普通解雇なので、退職金は満額出ます。」との返答がありました。

あまりの急な話に言葉を失った田中さんは、呆然としたまま帰宅しました。しかし、いくら考えても自分が会社を辞めなければいけないということが納得できません。田中さんは、妻と大学受験を控えた息子を前に悔し涙が止まりませんでした。

3.田中さんの障害

田中さんは、中学卒業と同時に神東塗料株式会社に入社しましたが、中学時代は陸上競技部に所属しており、趣味はマラソンと水泳というスポーツマンでした。もちろん、入社後もまじめ一筋に仕事を頑張ってきました。

ところが、そんな田中さんを突然の病魔が襲います。1996年秋、田中さんは、HTLV-1ウイルスに感染しHAMを発病していることが分かったのです。

HAMとは、四肢の運動機能が低下し、次第に歩行や排尿が困難になっていく進行性の病気です。九州地方に患者数の多い病気ですが、2008年4月にようやく厚労省の難病認定を受けました。

田中さんの自宅がある神戸市西区から尼崎の会社までの通勤は遠く、しだいに歩行が困難になっていため、2001年頃から、田中さんは杖を1本使用して出社するようになりました。ただ、このころはまだ従前どおりの部署で塗料の成分を解析する仕事に従事していました。

ところが、田中さんは、次第に足があがりにくくなり何度か職場で転んだため、現在の職場では危険であるという理由で総務人事室への配置換えを命じられました。2005年のことでした。人事室での業務内容は、郵便物の仕分け、経理伝表の起票、資料の印刷、カタログの出荷作業等でした。田中さんは、人事室に異動してからも何度か転ぶことがありましたが大事には至りませんでした。人事室での業務量はそう多くなかったので、田中さんはいつも「僕はもっと仕事できますので、仕事を下さい。」と上司に願い出ていました。

2006年12月8日、HAMの進行により腰部脊柱管狭窄症を発症した田中さんは、腰部の骨による神経の圧迫をくい止める手術を受けました。本当は充分な休養が必要だったのですが、1月もたたない2007年1月5日に職場復帰しました。手術直後で腰骨の状態が不安定だったので、田中さんは杖を2本使用するようになりました。

まだまだ本調子ではないけれど会社に迷惑をかけたくない、一日も早く元の体調に戻したいと何とか頑張っていた矢先の解雇予告でした。

4.会社との交渉

突然の解雇予告に絶望と怒りで混乱していた田中さんでしたが、いつまでもくよくよしているわけにはいきません。田中さんは一日も早く会社に戻ることを望んでいましたので、職場復帰を求めて会社との交渉にはいることになりました。

私たちは、田中さんにできる仕事はたくさんある、会社のバリアフリーを完備し車通勤を認めてくれれば安全に業務を遂行できると、田中さんの復職を求めました。

ところが、会社側の代理人は、「2月20日の話し合いは解雇予告ではなく、田中さんの体調を心配して退職勧奨をしたにすぎないが、田中さんに退職してほしいという結論は変わらない。これまで、田中さんのできそうな仕事をわざわざ作って与えてきたが、会社にはもうこれ以上田中さんのできる仕事はない。職場で転んでケガをしたらみんなが困る。」と繰り返すばかりで、いっこうにこちらの言い分を理解しようとしませんでした。

そして2007年7月末、とうとう会社から田中さんに解雇通知が届いたのです。

5.仮処分申立

私たちは、解雇は解雇権の濫用にあたり無効であるとして、地位保全の仮処分を尼崎支部に申し立てました。仮処分においても会社側の代理人は「会社には田中さんのできる仕事はもう無い。転倒事故が多く安全に業務を遂行できない。」との主張を繰り返すばかりでした。

私たちは、田中さんの職歴や、会社の先輩からの聞き取りから、田中さんに従事可能な業務はたくさんあること、会社内のバリアフリーが実現されれば田中さんは安全に業務を遂行できることを主張・立証し、会社側は障害者を厄介払いしようとしているに過ぎないことを強調しました。

この事件はマスコミの関心が高く、テレビで特集番組も組まれ、仮処分の結果が注目されました。

しかし、決定主文は「申立て却下」。被保全権利の存在は認定したものの、会社から田中さんに退職金が支払われていたため、保全の必要性がないと判断されてしまったのです。

このような結果にも、田中さんは、解雇は無効と言いながらなぜ申立が却下されるのかわからない、徹底して闘いたいと、職場復帰の希望を捨てませんでした。

6.労働審判

そこで、私たちは神戸地裁に労働審判を申し立てました(審判官は橋詰裁判官)。審判官はもちろん、2人の審判員も、このような解雇は、現在の障害者を取り巻く社会常識からは到底許されないという意見でした。

しかし、裁判所の説得にもかかわらず、会社は、たとえ多額の金銭を支払うことになっても田中さんの職場復帰を認めることはできないとの姿勢を崩しませんでした。

私たちは、調停で金銭解決をすべきか訴訟に移行させるべきかの選択に悩みました。

最後は田中さんが、「裁判しても現実に職場に戻れないんやったら、もう早く終わらせたいです。」と言ったので、調停による解決を選ぶことになりました。調停内容は、会社の解雇撤回と、定年までの給与の約6割の金銭を追加退職金として支払うという、こちらの言い分を全面的に認めたものとなりました。ただ、負け惜しみなのかは分かりませんが、会社は「相手方は,障害者の雇用や労働環境についての申立人の主張を真摯に受け止める」という条項を入れることに最後まで同意しませんでした。

7.最後に

田中さんの解雇は障害を理由としたものに外ならず、このような解雇は、障害のある人の権利に関する条約の精神に反し、また国内の法制度からも到底許されるものではありません。しかし、利益追求を至上命題とする民間企業にとっては、作業能率の悪い障害者を雇用するより、障害のない人を雇用する方が都合がいいというのが本音です。

また、田中さんは専門的知識や特殊技能もない、いわゆる普通のサラリーマンでした。協力してくださった田中さんの職場の先輩も「田中がもっと能力のある人間やったら、会社は障害者でもクビにせえへんかったはずや。田中の努力が足りんかったんやから、あきらめろ。」と言われてしまいました。

私は、裁判所の結論をどうやって「解雇無効」に持って行けばいいのかがわからず、初めの頃はとても悩みました。

藤原弁護団長の「この事件は勝たなあかん」という揺るぎない信念と、白子弁護士のねばり強い姿勢、そして何よりも田中さんの「僕、こんなことがあっても会社が好きやねん。また会社に戻って働きたいねん。」という真っ直ぐな気持ちに教え導かれて、何とか最後まで頑張れたというのが率直なところです。

2008年8月12日の調停成立をもって、この事件は終了しました。

調停内容もほぼ解雇無効を宣言したに等しい内容となり、金銭支払額もこちらの望み通りの額となりました。田中さんとも笑顔でお別れしました。

しかし、私は、企業に負けてしまったという思いを払拭することができません。

「一日も早い職場復帰を」という田中さんの唯一の願いは、実現できませんでした。

会社は退職金の追加支出をさせられたものの、結局、障害者であるという理由だけで、40年近く地道に頑張ってきた田中さんを退職させることができたのです。仮に訴訟に移行し、解雇無効の判決が出たとしても、会社は復職を拒否したと思います。

お金さえ払えば労働者をクビにできる、このような企業の横暴に労働者がどうやって対抗していけばいいのか、その答えを模索することが今後の私の課題となりそうです。

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兵庫青年ユニオン〜波〜
結成1年を振り返り

兵庫青年ユニオン〜波〜 書記長 赤木 涼子


兵庫に青年ユニオンができて、早一年です。

10月に定期大会を開き、一年をふり返って、活動の成果をみんなで喜び合いたいと思います。"成果"というと大げさかもしれません。でも、一年前とはちがう情勢の変化を、自分たちも動かしてきた一員だと実感しています。

結成した昨年の青年の雇用問題は、『偽装請負』でした。いまや『偽装請負』が何たるかはかなり知られています。しかし、昨年はまだ、派遣の形で請負契約をして働かせるということは、「とんでもない」法律違反だったのです。それは今も変わりませんが、そのときは、派遣を受け入れているほうも、派遣するほうもあまりよくわからずにやっていた、という企業もあったものです。

私自身、同僚の解雇闘争ではじめて労働組合に相談にいったのですが、職場の偽装請負が発覚し、「まさか!」と驚いたものです。というのは、『偽装請負』が工場などで多く見つかっていたからです。まさか、一般事務職まで『偽装請負』がされていたとは!しかも神戸市という自治体がやっていたとは!その後、請負会社は事業撤退し、今は市の臨時職員あつかいになっていますが。とにかく、昨年は「とんでもない」偽装請負も、いま発覚すると違法性が社会的に暴露され、「まだそんな違法なことやってるの?」と社会的信用がなくされるようになっていますし、労働組合との団体交渉で痛い目を見ることになり、企業のほうでもぬけぬけと出来なくなっている。こんな情勢の変化があったと思います。

そして、『偽装請負』など"あまっちょろい"と感じる『日雇い派遣』が、最近クローズアップされてきました。その実態がだんだんわかってきて、携帯電話のメールで仕事の指示を受ける。毎日ちがう現場に行き、ちがう仕事をする。保険にも加入させない会社に低賃金でこき使われるというものだということが明らかになってきました。そして、それで生計を立てている青年労働者の姿、生き方がTVで報道され、"ネットカフェ難民"に象徴されるように、住居を持たないその日暮らしの青年が多数いることも明らかになってきました。

ネットカフェ調査が全国でとりくまれ、私たちも青年ユニオン準備会でとりくみましたが、昨年の全国青年大集会に、ネットカフェ暮らし2年の青年が壇上に上がり「落ちるときは簡単で、そこから上がるのはとても厳しいのが現状です」と深刻に語りました。この青年も家賃が払えず部屋を解約したことから、住所がないため定職に就けず、月払いだとそれまでの生活ができないため日払いのバイトをはじめてネットカフェで暮らすようになったと言いました。

日雇い派遣の劣悪なものは、集合場所と時間がメールされてくるだけで、その日どこに行って、どんな仕事をするのか知らされないまま現場に送り込まれ、派遣の禁止されている建設業で働き、慣れない道具を使い怪我をしたり、体を痛めたり。冷凍倉庫に派遣され、素手で作業したため凍傷になり、そのあとしばらく働けなくなるというような危険な環境に身をおく青年の実態がうきぼりになり、今や世間も放っておいてはいけない、というふうに変わってきました。前出のネットカフェ暮らしの青年が「自分はただ明日の心配をせずに働き、生活したい」「手放してしまった普通の生活をもう一度とりもどしたい」とうったえたのは衝撃的で、こんなふうに青年を追い詰める社会ってなんだ!?と怒りと悲しみが集会会場を包んだことを肌でおぼえています。

いま私たちは、貧困と格差の広がりが「己の努力が足りないからだ」という構造改革を突き進む政府の呪文―「自己責任論」で解決できないことがわかっています。それどころかますます貧富の格差を広げるものだという本来の政府の主張がわかり、それと闘うことが一番の課題となっています。

先日の宣伝で対話した若い男性が、日雇い派遣について「そういう働き方を選んでやっているから、その人の責任だと思いませんか」と質問してきたことに対して、日雇い派遣の劣悪さと、政府によって摺りこまれてきた「自己責任論」が、私たちが連帯することを困難にしていること。青年ユニオンは、そんなバラバラにされた青年労働者たちが、正規か非正規を問わず結集できて、会社と団体交渉する権利も持つ労働組合だということ。全国で青年ユニオンが広がっていること。そして、私たちは日雇い派遣で働く青年を「自分が選んだのだから」という見方をせず、そういう働き方でしか生きていかれなくさせている社会が問題だという立場だ、と説明しました。彼はうなずきながら熱心に聞いてくれました。

このような宣伝をこの一年間、いろんな場所や時間帯でおこなってきましたが、対話する青年に「兵庫でも青年ユニオンがあるので、相談してください」と言えることが、とてもうれしく積極的に話をしていけるようになりました。

組合員は結成時の14名から、9月現在で36名になりました。

私は書記長として活動してきましたが、「組合」とは何か?をつねに考えてきました。兵庫青年ユニオン〜波〜という組合は、何ができる?だれのためにあって、何のために活動しているのか?

兵庫青年ユニオン〜波〜の組合員は、そのほとんどが組合活動未経験者です。会社に組合のない人、あっても入っていない人、非正規のため組合から声がかからない人など、そんな青年が集まっているのが私たちの組合なのです。先輩もいない、既存の組合活動もないなか手探りでがんばってきました。そして、自分たちが最初のメンバーであることを誇りに思っています。

冒頭に書いた運動の成果は、青年ユニオンに結集する組合員が増えていること。いろんな団体から活動報告を依頼されること(民法協ニュースさんにもこうして取り上げていただいてます)。さまざまな運動団体の先輩や、宣伝中に声をかけてこられる大人の方が、「若者がんばれ!」「あなたたちを応援したいから手伝わせて!」と言ってもらえること。

そしてなによりも、青年ユニオンを通じてたくさんの青年と出会えたことが一番の成果です。私たちは自分たちの感覚で、自分たちの言葉で、自分たちの働きかたと生きかたを語りあってきました。それも青年ユニオンがあるからこそ、のつながりで出来たものです。

来月の定期大会を機に、兵庫青年ユニオン〜波〜がますます活動の波をひろげ、兵庫の青年労働者に何らかの影響をあたえられるように、連帯の波をひろげていきたいと思います!

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