《第486号あらまし》
 「つぐみ保育園」不当解雇事件の勝利解決について
 労働トラブルホットライン報告
 足立昌昭弁護士を偲んで
     足立昌昭弁護士を偲ぶ
     追悼文

「つぐみ保育園」不当解雇事件の勝利解決について

弁護士 増田 正幸


1 つぐみ保育園の保育士解雇事件が労働審判で解決しましたので報告します

Mさんは平成20年3月に4年生大学の幼児教育学科を卒業しました。保育士と幼稚園教諭1種の資格を持っています。平成19年11月につぐみ保育園に保育士として就職することが内定し、11月から平成20年3月末までのべ24日間の研修を経て平成20年4月1日につぐみ保育園に保育士として採用されました。

つぐみ保育園を運営している法人は西区内に3園の保育園を開設しています。とくに今年は3園目を新たに開設したこともあり、法人では全体で17名の採用があり、つぐみ保育園にはMさんを含めて7名が新人として採用されました。

Mさんは2歳児クラスの担任として配置されました。2歳児は35名で担任保育士は4名中、1人は2年目、他の3名はいずれも新人でした。

2 平成20年6月に試用期間中であったMさんは解雇されてしまいます

法人が解雇の理由としたのは次のような事実でした。

@ 平成20年4月11日(金)、通勤届の書き直しを求めた上司に対し、反抗的な態度を取ったこと。

A 平成20年4月上旬、園児に対し「ツグミちゃん」(仮名)と呼ぶべきところを「ツグ!」と端折って呼び捨てにしたので、先輩職員が注意したところ、再び「ツグ!」と呼び捨てにし、注意を無視したこと。

B 先輩職員に対して、「何かすることがあったら言ってね」と、「ため口」を使ったこと。

C 退勤時に大きなサングラスをかけていたこと。

D 給料日に同期の保育士が始めての給料に涙ぐんでいるのを見て「給料が少なすぎて泣いてるのかと思った」と発言したこと。

E 平成20年5月になって・・記載の事項について園長が注意したところ、いいわけをしたこと。

F そこで、園長が上記・・について反省文の提出を命じたのに対してこれを拒否したこと。

3 本件解雇の違法性

(1)解雇理由@について

Mさんは通勤手段としてバスを利用していましたが、法人の内部規定で短距離の場合はバス代が交通費として支給されないのを知らずに通勤届にバス通勤であることを記載しており、その書き直しを求められました。Mさんは実際にバスを利用しているのに交通費が支給されないと言うことに納得いかずに、その根拠を質しました。

しかし、根拠規定を見せてもらい納得した後は、直ちに通勤届を書き直しに応じました。

(2)解雇理由Aについて

園児の名前を愛称のつもりで縮めて呼んだ事実はありましたが、他の保育士を真似て呼んだだけで、注意された後は直ちに改めました。

(3)解雇理由Bについて

1年先輩ではあるが年下の保育士に対する言葉遣いが問題とされましたが、相手が不快な思いをした事実はありませんでした。

(4)解雇理由Cについて

そもそも就業時間外の通勤時にどのような服装をするか、どのような装身具を身につけるかは労働者の自己決定に委ねられている事柄であり、サングラスの着用を制限する必要性も合理性もありません。

(5)解雇理由Dについて

仲の良い同僚に対して冗談のつもりで言っただけのことで相手方の同僚はその発言を気にもしていなかったし、関係が悪化するということもありませんでした。

(6)解雇理由EFについて

Mさんは反省文を書こうと机の前に座りましたが、自分の言動で不快な気持ちになった同僚がいるのであれば、何よりもその同僚に直接謝るべきだと思いました。園長に対する反省文の提出というのは筋違いだと思い、園長に反省文ではなく直接謝まる機会を作って欲しいとお願いしたのです。そもそも反省文を書かせるということは労働者の内心の自由に侵すものであり、その提出を強制することは許されないことです。

(7)以上のとおり、

解雇理由はいずれも同僚や上司に対する態度などを問題にするもので、Mさんの保育士として職務の遂行には何の問題もありませんでした。また、Mさんの言動で同僚が不快な思いをしたことはなく、要はMさんの態度が園長の気に入らなかったというにすぎません。

(8)Mさんは試用期間中ですが、

使用期間中といえども解雇は客観的に合理的な理由が存し、社会通念上相当として是認される場合にのみ許されるのであり、本件解雇が不当であることは明白でした。

4 Mさんは全国福祉保育労働組合兵庫地方本部に加入

組合が本件解雇の撤回を求めて団体交渉をしましたが、交渉が決裂したために平成20年7月28日に神戸地裁に労働審判を申し立てました。

労働審判で裁判所は解雇には正当性がないという前提で原職復帰のための調停を試みましたが、法人の姿勢は頑なで、このままでは解雇無効の審判が出ても異議が出されて本訴になることは避けられませんでした。Mさんは本訴で闘いを続けるのか、退職という形で調停を成立させるのかという選択を迫られたのです。

Mさんにとってはまさに苦渋の選択でしたが、裁判闘争に時間を費やすよりも一日も早く新しい職場で子どもたちと接する方がよいのではないかと考え、退職するという決心をしました。

そして、平成20年11月7日に法人が解雇を撤回し、同日退職する旨の調停が成立しました。原職復帰は果たせませんでしたが、調停の内容はMさんの主張が正当であることを前提とするものであったことはいうまでもありません。

また、この紛争と併行して、労働組合が研修中の日当と交通費の支払を要求していましたが、それも認めさせることができました。

保育の現場では労働組合のない職場がほとんどであり、理事や園長の専横がまかりとおっています。大学を卒業したてのMさんにとって解雇された後は怒りと屈辱と不安の毎日だったと思います。それに耐えて見事に勝利を勝ち取ったMさんに敬意を表したいと思います。また、労働組合や支援の方々の支えがなければここまで来られなかったのも明らかです。

どうかMさんにはこれからもこの経験を生かして、自分と同じ思いをする労働者を1人でも少なくするために力を尽くして欲しいと思います。

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労働トラブルホットライン報告

弁護士 増田 正幸

兵庫民法協では2008年12月6日午前10時から午後4時まで、日本労働弁護団の行う「全国一斉労働トラブルホットライン」の一環として電話相談を実施した。会員弁護士9名が交代で担当した。

当日は、全国32ヶ所で相談が行われ、合計391件の相談があったが、兵庫では合計4件にとどまった。東京は88件、大阪は60件と比較的多かったのでこれら大都市に相談が集中したものと思われるが、6月7日(土曜)の一斉相談では全国(31箇所)で合計592件、兵庫で合計31件の相談があったのと比較すると全国的にも相談数は減少した。

ちょうど年末を控えて「派遣切り」や「内定取消」が相次いでいる中で、そのような相談が多くあるのではないかと予想したが、それどころではない(相談する余裕もない)というのが実情なのかもしれない。

兵庫には以下のような相談が寄せられた。

*「死ね」とか「もう来るな」とかしばしば暴言を吐かれて退職した。タイムカードの打刻をさせずに残業代も不払いである。

* パートの事務員、時給680円(最低賃金を下回る)で交通費も出ないし、暇なときは一方的に休まされる。

* 営業職で2年間の約束で東京に単身赴任したが、その後ずるずる期間を伸ばされて7年目を迎え、子どもとの生活をしたいので関西に戻して欲しいと言っても聞き入れて貰えない。

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足立昌昭弁護士を偲んで
足立昌昭弁護士を偲ぶ

弁護士 川西  護


昨年(平成19年)の7月に足立先生から頚のところに腫物ができて、近所の整形外科に見てもらっているのだけれど、なかなか良くならないという話を聞き、それは具合が悪い、早くCTかMRI を撮ってみたほうがいいよといったことがあり、間もなく、肺がんだったという深刻な報告を受けました。

かなり進行した末期のがんで、手術もできない状態でしたが、抗がん剤が劇的というほど効いて、ほどなく元気に仕事に復帰されました。

先生は、子ども達がまだ独り立ちしていないので、何とか目途がつくまでせめて4、5年は頑張らなくてはと言い、その後も積極的に仕事に取り組んでいました。

間もなく抗がん剤が効かなくなり、薬の副作用に苦しんだり、薬を変えるたびに入院を繰り返していましたが、先生は弱音も吐かず常に前向きでした。入院中も病室にファックスを持ち込み、書面を書き、事務所に指示して仕事を続けており、新しい事件の依頼にも応じていました。

抗がん剤の副作用で白血球が減少し輸血が必要となったり、頚のリンパ節の腫瘍が大きくなって声が出なくなっても、自宅に酸素ボンベを持ち込んで頑張っておられました。

11月7日夕刻奥様から危篤だという知らせを受け、私は先生の入院している病院に駆けつけました。

先生は、酸素マスクを顔に付けられ、大きく胸を上下させ、家族に両手をしっかりと握ってもらって、必死で酸素を取り込もうとしていましたが、それでも苦しさの余り身体をよじるようにして死と闘っておられました。苦しい中にあって先生の意識はきわめてクリアであり、何か語りかけようとされていましたが、酸素マスクのために言葉にならず、手文字でようやく「家族のみな、ありがとう」「川西さん、ありがとう」と判読できました。

それから30時間余、先生は死との壮絶な戦いを続け、頑張り続けました。医師が見かねて、「もっとお薬(モルヒネ)を使いますか、楽にしますか」と呼びかけても、首を振って断固拒否し、最後まで鎮静をせず、明瞭な意識を保ちつつ、最後に力尽き、11月9日午前3時12分旅立たれました。

まことに痛恨の極みというほかありません。

思い起こせば、先生との付き合いはもう40年になろうとしています。

私が、まだ弁護士の駆け出しで神戸の井藤譽志雄先生の事務所に席を置いていた頃、先生は21期の司法修習生で、よく労弁仲間たちと一緒に三宮界隈や本山の安い酒場でたむろしていました。その頃の先生ははつらつとして格好良く、女性にも随分もてていましたが、そんなことには振り向きもせず、ひたすら真面目一方でした。

そんな付き合いの中で、先生を私たちの事務所(当時神戸第一法律事務所と称していました)に迎えることになりましたが、すぐに私と一緒に尼崎支部に移り、今の阪神合同法律事務所の前身の尼崎合同法律事務所を作りました。

先生は、多くの仕事を手がけましたが、終始一貫して労働者、庶民の味方として、労働公安事件、公害事件、行政事件、借地借家事件などの多岐にわたる弁護士活動を展開しました。

とりわけ労働事件の分野では、卓越した労働法の知識と能力を発揮し、粘り強く熱心に取り組み、特に労働組合からさえ見放されたような孤立した零細な労働者の事件をまじめに取り組んで、輝かしい成果をあげました。

先生は、いつも穏やかで、やさしく、金銭に淡白でした。先生の口から不平不満や、人の悪口を聞いたことは一度もありませんでした。

趣味といえば弁護士会の囲碁仲間と暇があれば碁盤を囲み、たまの日曜日には近くの波止場に海釣りに行くくらいなもので、ゴルフや海外旅行などという当世流行の遊びは全然手を出そうとはしませんでした。

事務所は紆余曲折があり、人の入れ替わりもありましたが、先生とは39年間の間、常に一緒でした。事務所にいれば、お互い空気みたいな存在で、居て当然という感じで、事務所経費も互いにお金のあるほうが出すとと言う至っていい加減な事務所経営をしていましたが、先生はいつか息子さんと一緒に仕事をする夢を持っており、私もいささか年をとったので、ひとりでのんびりと仕事をしたくなっていた矢先の死でした。

先生は、まだやり残した仕事や家族のことがあり、まだ死ぬわけには行かないと思っておられただけに、いかにも悔しく残念な死でした。

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足立昌昭弁護士を偲んで
追悼文

宝塚映像労働組合 三浦  紘


宝塚映像労働組合として、あまりにも突然の足立先生の訃報に接し、何時も一緒に運動を進めてきた仲間を失った寂しさを感じています。

足立先生とは1983年宝塚映画時代の「希望退職募集」「3名の解雇」をめぐる争議からのお付き合いです。この時は「解雇」と「宝塚映像への事業移行」そして「退職金等の増額」で和解しました。

宝塚映像に移行して18年、阪急電鉄が宝塚ファミリーランドを閉園するその前段として、隣接する宝塚映像の撮影所を移転させようとする攻撃に対し、「撮影所の機能を残せ」「映像製作を基本にした経営の指針を明確にしろ」という要求で争議になりお世話になりました。 宝塚映画の時代は足立先生も若く、私たちが団交が終わった後、執行委員会で論議をしていると、弁護士に聞きたい、相談したい、考え方を聞きたいと足立先生に連絡を取ったことがあります。夜中であっても、先生の家の引越しをされた時にも対応して頂きました。先生の頼まれれば断れないという人柄、人間性、更には一緒にたたかうなかで問題点を勉強し解決していきたい、という挑戦の気持ちに触れることが出来ました。

第2次の争議でも、18年前の争議の資料を足立先生は愛車のトランクに入れてすぐに活用できるようにと対応されました。足立先生は支援共闘会議で、この闘争の困難さを当初から「職場の移転を中止させることは難しい、職場を守ることも難しい、宝塚映像株式会社の経営状況は確かに悪いし、やり方が法を犯しているとはいえない、法廷闘争は支えにしかならない、運動をどれだけ大きく広め強くするかだ」と話されていました。それは、朝日放送事件の判例を引いて、阪急は判決の解釈を変え、親会社の責任放棄を押し付けている。出来ればこの解釈を変えさせたい。判例の考え方が定着しているのを、宝塚映像の歴史と職場の実態から、阪急の支配力がどの様に宝塚映像に及んでいるのか実証したいという気持ちでこの争議に臨んでおられたのです。

私たちもこの方針に基づいて、労働委員会で、運動でその目標に向かったからこそ、撮影所の移転はさせたが、地労委でも中労委でも宝塚映像はこれからも映像制作はするつもりだという発言を引き出し、雇用と職場を守る「和解」が出来たと思います。

今も私たちは、このたたかいで得た「和解」にある「宝塚映像は、従業員が安心できる経営方針を明確にする」という項目を大切にし、宝塚映像から経営方針を明らかにさせる運動を強めています。いまだ宝塚映像からは経営方針が提出されません。むしろその「和解」を反故にする態度です。

これからの運動の方向をも示された足立先生の意思に報いるためにも、私たちの映像制作を基本とした会社経営をさせるため頑張りたいと思っています。

足立先生、一度酒を飲みましょうといっていましたがそれも叶いません。ゆっくりとお休みください。本当に有難うございました。