《第531号あらまし》
 尼崎アスベスト訴訟第一審判決報告
     ~クボタの法的責任を認める画期的判決~
 <橋下大阪市政を考える⑤>
     公務員の労働基本権を無視する大阪市労使関係条例
 過労死防止基本法の制定を!


尼崎アスベスト訴訟第一審判決報告
~クボタの法的責任を認める画期的判決~

弁護士 八木 和也


さる8月7日、神戸地方裁判所第5民事部(裁判長小西義博)にて、尼崎アスベスト訴訟の判決が言い渡されました。

本判決は、クボタが旧神崎工場から石綿を飛散させ、周辺住民に被害を及ぼしたことを認める画期的なものでした。

尼崎アスベスト訴訟とは、「クボタショック」の震源地旧神崎工場(1954年操業〜1995年廃業)周辺に居住ないし勤務し、アスベストを吸って中皮腫(石綿特有の疾患)で亡くなった2遺族が、クボタと国の責任を問うた訴訟です。

これまで石綿公害に対する企業の責任が認められたケースは皆無であり、その意味では、本判決は今後も発生しつづける石綿被害者の救済範囲を大きく広げる可能性を持った画期的な判決と評価できると思います。

ただし、本判決は居住地が旧神崎工場から1キロを超えていた被害者についてはクボタの責任を否定し、いずれの被害者との関係でも国の責任を否定するなど不当な部分もある判決でした。以下、判決の中身を紹介いたします。

本判決は、まずクボタ旧神崎工場からの飛散について、「昭和29年から昭和50年ころまで(あるいは昭和56年ころまで)の旧神崎工場内における石綿飛散対策では、建屋内や敷地内で発生した石綿粉じんの飛散を十分に防ぐことはできておらず、石綿粉じんが同工場の敷地外へ飛散していたことが認められる」として、工場敷地外への石綿の飛散を明確に認定しました。

具体的には、本判決は、原告側証人の証言などを根拠として、「昭和50年ころまで、旧神崎工場西側の植木や敷地境界の壁際に白い粉じんが積もり、植木の粉じんは1ないし2㎝程度の長さのつらら状になっていた」とか、「昭和38年ころから昭和50年ころにかけて、旧神崎工場北側の道路では、光る粉じんが漂っており、昭和31年ころから昭和50年ころにかけて、旧神崎工場周辺ではほこりで目がちくちくする状態であった」などとして、旧神崎工場周辺には大量の粉じんが漏れ出していた事実を認定しています。

さらに、石綿が飛散した範囲については、車谷・熊谷論文(旧神崎工場周辺で発生した中皮腫被害者を対象とした疫学調査)について、一定の限界があるとしながらも、同論文の研究結果を根拠として、旧神崎工場から300m以内に1年以上居住したか、又は相対濃度50−199(同研究では飛散シュミュレーションによって工場周辺における石綿濃度の分布図を作成しており、相対濃度50−199は約200m〜最大約500mまでの高濃度地域に該当)の範囲に居住した者について、旧神崎工場から飛散した石綿粉じんによって中皮腫を発症するリスクが高いと認定しました。つまり本判決は、クボタの石綿が少なくとも旧神崎工場から300mの地点に至るまでは一定量以上の飛散があったとの事実を認めたと評価できると思います。

この結果、クボタ旧神崎工場から南南東へ200mに位置するヤンマー尼崎工場に勤務していた本訴訟の被害者については、クボタの石綿が原因であると認定しました。

他方で、クボタ旧神崎工場から1100m〜1500mに居住していた被害者については、クボタの石綿が原因であることは否定できないが、他の工場から飛散した石綿に曝露した可能性も否定できず、クボタの石綿が原因であるとは特定できないとしました。

なお、弁護団は上記被害者については、クボタから300mに位置するスーパーへほぼ毎日買い物に行って曝露した主張しましたが、滞在時間や頻度が不明確であるうえ、居住地を曝露地点とした設計された車谷・熊谷論文とはデザインが異なるとして、退けられました。

そして、本判決は、大気汚染防止法25条1項の無過失責任の規定を適用し、因果関係が認められた一遺族との関係で、クボタの法的な責任を認めました。

クボタはこれまで一貫して工場周辺の大量被害とクボタの石綿との間に因果関係は不明であるとして、法的責任を否定し続けてきましたが、本判決はクボタのこうした主張を真っ向から否定するものとなりました。

しかしながら、本判決は、国の責任については、被害者が曝露していた昭和50年の時点においても、IARC(国際ガン研究機関)や国内の論文で周辺曝露の危険性が指摘されてはいたが、まだ研究段階にあったし、国内での被害報告もなかったとして、責任を否定しました。

以上のとおり、本判決はクボタの法的責任を明確にした点で画期的な意義を持つものではありますが、飛散の範囲を限定的にしか認めていない点や国の責任を不問に付した点で問題のある判決でもあるといえます。

クボタは本判決後に即日控訴しましたが、弁護団も控訴しました。これにより尼崎アスベスト訴訟の舞台は大阪高裁へと移ることとなりました。

弁護団は、控訴審においてさらなる主張・立証を尽くし、クボタによる飛散の範囲を拡大させるとともに、国についても規制を怠りつづけた責任があることを明確にし、石綿被害者の全面救済を可能にする判決を勝ち取るべく全力を尽くします。さらなるご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

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<橋下大阪市政を考える⑤>
公務員の労働基本権を無視する大阪市労使関係条例

弁護士 本上 博丈


1.はじめに

橋下大阪市長は臨時市議会開会日の2012年7月6日,この間の労使関係に関する調査によって明らかとなったような勤務時間内の組合活動や,ヤミ便宜供与,人事異動への介入等を解消するためとして,市職員の市民的政治的自由をことごとく禁止する「職員の政治的行為の制限に関する条例案」とともに,労働組合との交渉内容を狭い労働条件などだけに制限する「大阪市労使関係に関する条例案」を提出,同月27日,維新・公明・自民の賛成多数で可決された。このうち,「職員の政治的行為の制限に関する条例」については,前の第530号の<橋下大阪市政を考える㈬>で萩田満弁護士が取り上げたので,本号では「大阪市労使関係に関する条例」(以下,労使関係条例という)を取り上げる。

2.公務員=労働者という大原則

公務員も言うまでもなく労働者であり,憲法28条の労働基本権(団結権,団体交渉権,争議権)を有している。憲法論的に言うと,憲法上の権利である公務員の労働基本権が合憲的に制約されるのは,憲法が予定している公務員制度の維持に必要不可欠な最小限度の範囲に限られる。公務員の争議行為すら,その無条件の全面禁止は憲法違反であって無効である。ましてや団結権や団体交渉権を制約する法令の憲法適合性審査が極めて慎重になされなければならないのは,当然である。地方公務員の団体交渉権が制限されうるのは,単に公務員だからということではなく,地方公務員制度として勤務条件条例主義(勤務条件は当局の一存だけでは決まらず条例化されることが必要)に服しているからである。

公務員=労働者であることを無視して,首長や市民の召使いであるかのように言い募る橋下市長やその言説を垂れ流している新聞,テレビは,その根本において全く誤っている。

3.労使関係条例の基本構造

狙いはズバリ,公務員組合の無力化であり,その手段として,㈰管理運営事項を口実にした団交事項の極少化(第3条,第4条),㈪慣行となっていた便宜供与の一切の剥奪(第12条),㈫市民と公務員組合の対立を煽り,逆大衆団交(団交は当局側の味方に付けた市民監視の下で行う)で組合を萎縮させる(第1条,第6条),という手法が採られている。

① 管理運営事項を口実にした団交事項の極少化

もともと地方公務員法55条3項は「地方公共団体の事務の管理及び運営に関する事項は,交渉の対象とすることができない。」と定めているが,これは,管理運営事項は勤務条件条例主義のように議会の承認が必要とされ,当局の意思だけでは決定し執行することが法律上許されていないことによる。

しかし現実には,当局から見ると管理運営事項だが,公務員の側から見ると勤務条件の一つ,というように同じ事項をどちらから見るかの違いにすぎない場合は多い。例えば、職員の解雇や配転は人事権の行使であり、当局側から見れば管理運営事項だが、労働者側にとってみれば重要な労働条件の変更となる。また職員定数も当局の決め方によっては労働者の仕事の軽重に直接影響を与えることから、定数問題も労働条件となる。このように実際の団体交渉において、「管理運営事項」と「団交事項となる労働条件」とが密接な関係を持っているのは一般的なことであり、通説的には,勤務条件の面では当然団交事項となり,それが管理運営事項に関わる部分では当局はその団交結果を実行できるよう議会等を説得する義務を負う,と解されている。

ところが労使関係条例4条は,14項目もの管理運営事項を列挙し,それらについては団交事項とすることができないというだけでなく,ご丁寧に「意見交換その他交渉に類する行為を行ってはならない。」とまで定めており,その団交拒否の徹底ぶりには呆れる。憲法28条が労働者に保障している団体交渉権の侵害であることは明らかである。

なお地方自治体の管理運営事項は,民間企業で時々言われる経営権事項を連想させる。使用者側が,経営権事項は団交事項ではないと言って,団交拒否を正当化する主張をすることがあるが,およそ労働条件に関する事項は団交事項になるのであって,今のところ,全くの誤りと考えられている。しかし,大阪市の労使関係条例が当然視されるようになれば,経営権事項を管理運営事項と同一視する言説も流布するおそれがないとは言えないだろう。

② 慣行となっていた便宜供与の一切の剥奪

労使関係条例12条は「労働組合等の組合活動に関する便宜の供与は,行わないものとする。」と定めて,大阪市は便宜供与の一切を剥奪していっている。

確かに労働組合は労働者が自主的に結成する自立的組織であって,使用者の援助なしに自力で運営しうるのが原則だから,使用者に便宜供与を当然に請求できるわけではない。しかし,企業別組合を前提に考えると事業場内において組合事務所や掲示板があるかどうかは組合活動上重要な意味があるし,長年慣行等で認められていた便宜供与が突然剥奪されると,それによる組合の弱体化は容易に予想することができる。そこで通説判例は,一旦便宜供与が慣行等によって確立された場合,合理的根拠なしに,あるいは労働組合との十分な協議を経ずにそれを廃止することは,団結権侵害としての評価を免れず原則として支配介入の不当労働行為にあたると解されている。

したがって労使関係条例12条は,憲法28条の団結権を侵害する,支配介入の不当労働行為の条項である。

③ 逆大衆団交による労働組合への威嚇

労使関係条例1条は目的規定であり,その中で「適正かつ健全な労使関係の確保を図り,もって市政に対する市民の信頼を確保することを目的とする。」と定められている。市政に対する市民の信頼は,本来なら市政そのものによって得られるべきものであって,労使関係は自治体内部の問題にすぎないはずである。したがって,労使関係を市政に対する市民の信頼確保に結びつけるのは奇異であり,問題のすり替えである。

そのすり替えの意図は,労使関係条例6条において,労使交渉の議題,時間及び場所の事前公表,交渉そのものの放送機関,報道機関等への公開,交渉議事録の1年間の公表を定めていることで,顕わになっている。もし市民が公務員組合に共感し,団体交渉における当局の頑なな態度に同じ労働者として怒りを感じるような状況にあれば,当局側が交渉の公開をすることはあり得ない。しかし,市民が組合をわがままな既得権益の保護者と見なして敵視している状況なら,交渉の公開はそのような市民の監視によって組合の団交での主張にプレッシャーを掛けることを意図していることは明らかである。団体交渉における集団的圧力を逆手にとって組合を押し潰そうとするもので,その発想には空恐ろしさを感じる。と同時に,大衆は扇動すれば自分の意のままに操ることができるという大衆蔑視が背後にあることも透けて見える。

4.労働者が労働者の足を引っ張る悲劇

公務員が人間として当然保障されている表現の自由や政治活動の自由を制限する「職員の政治的行為の制限に関する条例」,そして公務員の労働基本権など端からないかのように無視をして公務員組合の無力化を狙う労使関係条例を併せて見れば,橋下大阪市長が憲法や労働者保護法など一切お構いなしに,自分の意のままになる職員体制作りを着々と進めて行っていることが分かる。このような憲法違反の条例の成立に手を貸した公明,自民の責任も重い。そして,何よりも恐ろしいのは,そのような橋下大阪市長を支持しているのもまたその多くが労働者であるという事実である。労働者が労働者の足を引っ張ること,それこそは,権力者が最も容易に労働者支配を貫徹する方法だろう。

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過労死防止基本法の制定を!

弁護士 増田 祐一

過労死防止基本法の制定を!
いのちより 家族より 大切な仕事って なんですか?
 
 人にとって、労働とは、重要なものです。人は、労働により、生活の糧を得るだけでなく、経験を積み、満足感や自信を得ます。
 
 しかし、この労働も、過ぎれば、及ばざるがごとしであり、心身に不調をきたします。脳の血管が破裂したり、心臓が動かなくなったり、精神がバランスを失って、死を選択せざるを得なくなるようなことがあります。皆さま、ご存知だと思いますが、このように「働き過ぎが原因となって引き起こされる死」を過労死といいます。
 
  2010年だけで、労災認定された(国が仕事が原因であると認めたもの)のは、脳や心臓の病気に関しては285件(うち死亡は113件)、精神的なトラブルに関しては、308件(うち自死は65件)です。
 
 しかし、そもそも、病気になっても、労災申請をしない人の方が大半ですし、労災申請をしたとしても、我が国の労災認定基準は、未だ厳格なものがあり、真実は、仕事が原因なのに、それが認められないという人がたくさんいます。このようなことから考えれば、1年間に、働き過ぎが原因で心身に不調をきたした人というのは、膨大な数になるはずであり、命を失っている人も、数万人存在していると思われます。
 
 「仕事があるだけましだろ!いちいち残業代なんかつけるな!」「与えられた仕事は、徹夜してでも終えろ!」「仕事が終わらないのは、お前の要領が悪いからだ。終わるまで帰れないのは当たり前だ!」などと、職場ではよく聞くフレーズだと思います。しかし、このような発言を真に受けて、一生懸命に働く労働者は、実は、自分の労働や時間を提供しているだけではなく、生命までも提供しているのです。


 真面目な労働者だからこそ、仕事に責任を感じ、無理をしてでも終えようとし、追い詰められていくのです。


 使用者は、そのような労働者がいると便利でしょうから、そのような労働こそ美徳であると称賛し、真面目な労働者に対して、更に、安易に仕事を割り当てがちです。しかし、いざ、労働者の身に何か起こった場合には責任逃れをしようとする……そんな使用者が大半です。本人の能力が低かったのだ、本人の体が弱かったのだ、自己責任だ、そんなに働いていないはずだ……お決まりの弁解です。


 とにかく、過労死・過労自殺は、起こってしまってからでは遅いものです。未然に、過ぎたる労働を防止する必要があります。そのためには、営利を追求する使用者の善意に期待しても意味はなく、国が、使用者に対して、過ぎたる労働を規制する必要があります。また、過ぎたる労働は、生命を削るのだという認識を、使用者、労働者問わず、広く、国民みんなが持たなければなりません。


 そこで、考えられたのが、過労死防止基本法の制定です。この制定を求めるご署名にご協力お願いいたします。


 ちなみに、マスコットは、カエルです。家に早く帰る(カエル)という思いが込められています。
       

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