《第552号あらまし》
 NHK神戸放送局事件、画期的判決!
     神戸地裁が東京高裁の判断枠組みを全否定し、労働者の権利を救済
 百合学院・専任教諭請求事件
 連載⑤ 蒸気機関車SL物語


NHK神戸放送局事件、画期的判決!
神戸地裁が東京高裁の判断枠組みを全否定し、労働者の権利を救済

弁護士 八木 和也


1 NHK神戸放送局事件とは、同放送局で受信料徴収業務に従事していた原告が成績不良を理由に委託契約を解除されたことから、解雇には理由がないとして解雇無効を争った事件である。

2 NHKは国民からの受信料収入をほぼ唯一の財源として運営される特殊法人であり、したがって受信料徴収業務はNHKの健全な運営にとって極めて重要な業務であるにもかかわらず、NHKは昭和5年(当時は東京放送局)以来、一貫して受信料徴収人を労働者として遇せず、委託契約を結んで受託者=個人事業主として受信料徴収業務を担わせてきた。

3 しかしながら、委託契約とは名ばかりであり、NHKは徴収人として採用したスタッフ全員にNHKが実施する研修を受講させ、半年間に及ぶ研修期間中に課した厳しい目標を達成した徴収人のみを本採用し、本採用した徴収人に対して一方的に担当地域を割り当て、さらに厳しいノルマを課して業務に駆り立てるとともに、全員に「ナビタン」なる端末を所持させて徴収人の勤務状況を逐一把握し、ノルマの未達が続けば(3ヶ月連続80%以下)徴収人を呼び出して稼働時間や稼働時間帯について「特別指導」し、やがては職員による帯同指導までやり、それでも成績が上がらなければ一方的に契約解除するといった使い方をしてきた。

4 これまでに、契約を解除された徴収人らが、上記の労働実態に照らし、自らは労働者であるとして契約解除=解雇の有効性を争ったが、東京高裁H15.8.27判決(NHK西東京営業センター事件)、仙台高裁H16.9.29判決(NHK盛岡放送局事件)、東京高裁H18.6.27判決(千葉放送局事件)などは、いずれも契約の形式面にのみ着目し、就業規則がないこと、徴収人へはNHK職員の給与規定が適用されないこと、事業者として納税していること、再委託の自由(徴収人は委託された業務を第3者に再委託できることに契約上はなっている)があること、兼業の自由があることなどを理由として労働者性を否定し続けてきた。

そして上記のようなNHKによる徴収人への「指導・助言」については、全国一律に受信料を徴収し、国民による公平な負担によって運営することは重要であるから、一定の合理性があるとして、容認してきたのであった。

5 本件の原告は平成13年7月2日NHK神戸放送局(以下では単にNHK)へ入社し、平成24年3月1日に解雇されるまでの間、研修期間6ヶ月を含む計11年8ヶ月にわたって受信料徴収業務を担ってきた(期間2年、更新5回)。

受信料徴収業務には、主に受信料未契約世帯を1件1件訪問し、受信料制度を説明し、契約を取次ぐ業務及び受信料の長期延滞世帯へ訪問し、受信料の支払いを促す業務の2種類があり、原告は主に前者の契約取次業務を担当していた。

原告は真面目な性格で成績もよく平成15年3月にはNHKから成績優秀者として表彰を受けたこともあったが、平成16年8月に起きたNHKによる一連の不祥事がきかっけで、顧客から「NHKの会長が辞めるまで払わない」「どの面下げてくるんや」「仕事を考えた方がいいで」などと心ない言葉を浴びせられ、徐々に訪問することが怖くなり、成績が低迷するようになった。

また、原告は不祥事の影響が薄れてきた平成20年以降でも、実母の急死やNHKの一方的な職種変更などによって成績は回復せず、平成24年3月1日、契約期間を1年以上残して成績不良を理由に契約を解除された。

そこで原告は平成24年7月3日付けで神戸地方裁判所へ自らは労働者であり、解雇される理由はないとして地位確認及び未払い賃金、慰謝料の支払いを求めてNHKを訴えた。

6 弁護団(羽柴修、瀬川嘉章、八田直子、八木和也)では、従前のNHK東京高裁判決を乗りこえるべく、同じく東京高裁判決を否定して労組法上の労働者性を認めたINAXメンテナンス事件最高裁判決(2011.4.12)、新国立劇場運営財団事件最高裁判決(同日)を活用することとした。

これらの最高裁判決は、東京高裁が契約の形式面を重視して労働者性を否定した判断の誤りを指摘し、より就労の実態に踏み込んで事実を認定したうえで、①事業組織への組み入れの有無②契約内容の一方的決定の有無③報酬の労務対価性の有無④使用従属性(業務従事への諾否の自由、業務遂行上の指揮監督、時間的・場所的拘束性の有無)などの点を総合考慮し、いずれの事件についても、労組法上の労働者性を認めた。

弁護団としては、上記最高裁判決の基本的な考え方は労組法上の労働者のみならず労基法上のそれにも妥当するとの前提に立って、原告が毎月3回は必ずNHKへ出勤し、NHK職員から様々な指導・助言を受けていたこと、NHKからは当期(1期=2ヶ月)の目標を一方的に与えられ、当月の勤務日数や勤務日、勤務時間を当期の初日に決めさせられ、報告書を提出させられていたこと、訪問中もたびたび電話で状況確認を受け、ナビタンで各出勤日の初動時間、就業時間、時間ごとの訪問件数を把握され、成績不良となれば労働時間について「特別指導」を受け、また、当期の担当地域もNHKの都合で一方的に決められていたことなどの就労実態を主張・立証した。

さらに、報酬についても基本給+出来高給の性格でできあがっていること、退職金や休業保障など福利厚生も充実していたことなど、備品などはすべてNHKが支給していたことも加えて主張した。

7 神戸地裁判決(2014.6.5)は、弁護団の主張をほぼ全面的に認めて未払い給与の支払いを認め(但し地位確認は期間満了により却下)、NHKが本訴訟で主張しつづけた従前の高裁判決の論理を一蹴した。

この点、判決は全国一律の受信料の徴収が重要であることはその通りであるが、そのことが直ちにNHKの立場からすると労働者ではないはずのスタッフへ指導助言ができる根拠とはならないとした。

そして、労働者性の判断については、「指揮監督下の労働」と「報酬の労務対償性」の2点から判断すべきとしたうえで、本件ではNHKが①業務内容を一方的に決めていること②勤務場所も一方的に決めていること③勤務状況についても定期的に報告させていたこと④ナビタンによって稼働状況を把握し、助言指導していたこと⑤助言指導は「特別指導」とあいまって指揮命令としての効果を持っていたこと⑥報酬は基本給部分もあったこと⑦事務機器の交付があったことなどを正しく認定した。そして、原告が労働契約法上の労働者であることを明確に認めた。

NHKが拠り所としていた再委託や兼業の自由については、たとえ契約書上でこうした条項が定められていても、実質的にはほぼ再委託や兼業は不可能であるとして評価しなかった。

8 以上のとおり、神戸地裁判決は最高裁が示した労働者性の判断枠組が労基法、労契法にも適用されると踏み込んだ点で画期的であり、もとより、ほぼ同じ事実関係のもとで、すでに3度にわたって高裁判決で否定された労働者性判断について、全く逆の判断を示したという意味では、極めて注目すべき判決であると言える。

本判決が「労働者性」概念の拡大を画する歴史的判決と将来位置づけられるべく、大阪高裁での戦いにベストを尽くす所存である。


2014年6月6日
全受労 神戸支部福島委員長不当解雇訴訟 
神戸地裁勝利判決について

 2014年6月5日、神戸地裁において出された判決は、われわれが求めていた内容をほぼ認めるものとなり大変感激しています。一部、慰謝料については棄却されましたが、原告と被告との間に「指揮命令・使用従属」関係にあったことを認定し、「原告は、労基法上の労働者と認める事が相当というべきであり、したがって労働契約法上も労働者と認めるのが相当」と判断されました。になる可能性について、当時の事務局長に、確認しました。その際も、本人に大きな問題がなければ3年目から専任教諭になっている、ということだったので、私自身も専任教諭になれるよう、精進しようと思いました。

NHK地域スタッフは、NHK受信料の契約収納業務を行っています。公共放送を支える立場であり、視聴者宅を個別に訪問し、公共放送が果たす役目を説明、理解を求め受信料を支払ってい頂くために日々、業務に従事しています。いて来ました。

 日々の業務は、NHKから与えられた携帯端末を通じて、管理され、月6回の報告日、中間連絡日等で業務進捗状況の確認がされます。他の労働者同様の業務従事時間が必要であり、NHKの業務を専業で行うことが求められていますが、NHKとは書面上「委託請負契約」を結んでいるため労働者として認められてきませんでした。
 NHKは、地域スタッフを「個人事業主」として取り扱っているために、「残業代ゼロ」「有給なし」「成果による賃金支払い」「一方的な解約」などができ、また、社会保険料の使用者負担を逃れ、労働者を安く使うことが出来るのです。

 今回の判決は、INAX・新国立・ビクター以降で、NHK地域スタッフを労働契約法上の労働者と認め、さらに労基法上の労働者相当であることを判断した初めてのケースになります。このことは、すべての労働者の地位向上、労働環境の改善につながり、同じ様な個人請負で働かされているなかまの権利を守るものと信じています。

 NHKは、控訴を行わずこの結果を真摯に受け止め、公共放送の目的である、健全な民主主義を育む、市民のための放送局になるよう願うものであります。
 また、この場をお借りし、弁護士先生方、兵庫労連の皆様をはじめ、多くの方の御支援をいただき感謝とお礼を申し上げます。本当にありがとうございます。  

 全受労では現在、大阪地裁、中労委、都労委で地域スタッフの労働者性獲得の闘いを行っています。今後ともご支援を賜りますようお願い申し上げます  

全日本放送受信料労働組合兵庫県協議会
議長 岡崎 史典
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百合学院・専任教諭請求事件

弁護士 萩田  満


学校法人百合学院は、尼崎市内において幼稚園及び小中高校を開設しています。

そのうち高等学校では、常勤講師で採用された教員は、2年間常勤講師としてつとめた後は専任教諭となるのが一般的でした。ところが、2012年に採用された国語科の上田未来先生は、2年間の常勤講師を良好な勤務態度で全うしたにもかかわらず専任教諭に採用されませんでした。常勤講師として採用された際に有期雇用契約書を交わしていたことから、「雇止め」(期間満了)と称して、実質的に、専任教諭としての本採用を拒否されたのです。

そこで、上田先生は、神戸弘陵学園事件最高裁判決の判例法理として確立された「試用期間論」、すなわち2年間の常勤講師の期間は単なる有期雇用契約ではなく、いわば試用期間であるとして専任教諭たる地位確認を求めて神戸地方裁判所尼崎支部に提訴しました。念のため、予備的には労働契約法19条の新設条項に基づいて継続雇用契約成立による地位確認請求も主張しました。

教育とは人格的ふれあいであり、短期間雇用が一般化することは生徒にとっても望ましいことではありませんが、私学においては、本件のように常勤講師の制度を濫用して、学校教職員の非正規化を進めているという実態が瀰漫しつつあります。神戸弘陵学園事件最高裁判決の判例法理は、こうした誤りを正すための武器となるものです。また、労働契約法19条も、不十分と言われた労働法改正のほぼ唯一のプレゼントであり、この規定は今こそ使うべきときです。

上田先生の教え子・保護者・同僚らは皆、上田先生の専任教諭化=解雇撤回を求めて署名や請願をしてくれている状況ですが、それにもかかわらず唯一学院側は徹底的に争う姿勢を見せています。本件は、尼崎支部の合議事件となっていますが、絶対負けられない事件であり、スピーディーに解決することを目指していきたいと思います。

6月5日に開かれた第1回口頭弁論期日では、傍聴席があふれるなかで、上田先生が感動的な意見陳述をしましたので、それを紹介いたします。


平成26年(ワ)第335号 雇用契約上の地位確認等請求事件
原告 上田未来
被告 学校法人百合学院
2014年6月5日
第1回弁論・意見陳述書
神戸地方裁判所 尼崎支部 民事第2部 合議B係 御中
原告 本人 上田未来
 私、上田未来は、平成23年12月に百合学院のホームページで、国語科教員の募集を知りました。それまで、多くの学校で非常勤講師・常勤講師を経験してきましたが、どこかで専任教諭になることを強く願っておりましたので、これは、チャンスだと思いました。募集要項には、年齢制限はありませんでしたが、今まで多くの学校で年齢制限がありましたので、念のため、応募する前に学校側に私の年齢(当時44歳)で、応募が可能かどうかを電話で確認をしました。学校側は、問題ないとの返答でした。また、同じく募集要項にはありませんでしたが、専任教諭になる可能性はあるかどうかも確認したところ、だいたい専任教諭になっている、という趣旨の返答でした。その際、学校側の人事担当は、現校長でした。さらに、私は、念のため、以前非常勤講師で勤務した時にお世話になった国語科の先生に電話で同様のことを確認し、大丈夫でしょうという返事を頂き、応募しました。

 その後、採用試験の際も、当時の校長から「十分経験を積んでいるから、即戦力になってもらえますね」という言葉を頂き、がんばろうと強く思いました。
   
 平成24年4月に採用された時も、最初の初任者研修で規定の説明を受けた際に、再度、専任教諭になる可能性について、当時の事務局長に、確認しました。その際も、本人に大きな問題がなければ3年目から専任教諭になっている、ということだったので、私自身も専任教諭になれるよう、精進しようと思いました。
 
 1年目は、分掌として高校1年生の学年付きの他、教務部、テニス部の顧問を任され、毎日精一杯勤務しました。その年の12月に前校長から呼ばれ、契約更新の話があった際に、「この学校で、専任教諭になるつもりはありますか」と聞かれ、「チャンスがあれば、がんばりたいと思います」とお答えしました。  
   
 2年目には、高校1年生の担任を任され、今までの勤務が評価されたとうれしく思い、さらに、責任を持ってやり遂げようと思いました。学年団の同僚や、国語科の同僚をはじめ職員室の同僚も当然、私が専任教諭になるものとして仕事を任され、一緒に働いて来ました。

 ところが、昨年12月に現校長に呼ばれ、任期は3月31日までであり、専任教諭にはしない旨が伝えられ、私は大変驚き、最初は全く受け止めることができませんでした。理由を確認したところ、「国語科の教諭の年齢構成と、少子化の影響で生徒数が減少しているため、専任教諭を増やさないことになった」ということを言われ、さらに私の教師としての力量に問題があるわけではないので、そこはわかってほしいと何度も念を押されました。また、この学校に残りたければ、非常勤講師としてなら可能であることをその時、伝えられました。
   
 その後、職員室に戻り、同僚達に伝えたところ、同僚達も大変驚き、すぐに学年主任や教科主任の先生方に連絡をとってくださり、その後、学年と国語科から理事長と校長宛に私の雇い止めの撤回と3年目から専任教諭にしてほしいという要望書が、各先生方の署名付きで提出されました。しかし、学校側は、なんら態度を変えることはありませんでした。

 また、非公式ではありますが、学院の組合の方々も、理事会との懇談をもち、訴えて下さいましたが、状況は変わりませんでした。  
   
 私は、このままでは、百合学院の教壇に立つことができなくなると考え、兵庫県私立学校教職員組合連合に相談し、学校に対して団体交渉を行いました。団体交渉は3月までに4回実施しましたが、状況は全く変わらず、3月22日、3学期の終業式を迎えました。私自身は、3月31日まで、あきらめずに交渉を続けるつもりでしたが、万が一生徒に何も告げずに4月から勤務しないことになることを恐れ、終業式後に生徒に現状を伝えました。生徒達も大変驚き、大泣きする者もいましたが、私の「あきらめずに交渉を続ける」という言葉を聞き、自分たちもあきらめずに待っているから、と私を励ましてくれました。また、その直後から、自主的に署名活動を始め、学校側に提出してくれました。生徒達の動きを知った保護者の有志の方々も同じく署名活動をし、学校側に提出して下さいましたが、学校側は何ら態度を変えませんでした。これらの署名活動について、「答弁書」において、学校側は「自発的なものかは不知。」としながらも生徒や保護者に対して、「原告が申し入れを行って署名を集めたものである。」と、あたかも私自身が、両者に依頼したかのように述べていますが、決して、そのようなことはありません。生徒の代表は、ある程度の署名を集めた段階で私の所にきて、「私達は、今、署名活動をしているけれど、勝手にこんなことをして、かえって先生に迷惑がかかりませんか。」と確認にきたぐらいです。保護者の方も、私の退職を知った翌日にすぐに学校に来て下さり、「自分たちも何かしたい」と、おっしゃって下さいましたが、私は「こちらからお願いすることはできません。」と申し上げました。その上で、声をかけあって、署名を集めて下さったようです。

 また、雇い止めの理由書の交付について、「答弁書」では、「平成26年3月4日の団体交渉時に説明書の交付の請求があり、次回団体交渉時の3月12日に交付したものであって、理由書の交付が「遅きに失した」ということはない。」と述べられていますが、雇い止めの理由については、最初に校長先生からお話があった12月10日を始めとして、その後の団体交渉においても、繰り返し求めてきたものですが、いつまでたっても明確な理由が提示されず、そのため、文書での回答を求めたものです。12月から求めていたものに対して、交付が3月というのは、やはり、「遅すぎる」と言わざるをえません。  

 そして、私達が最後の望みをかけていた、3月31日の団体交渉も拒否されました。そのため、今後、私が職場に復帰するためには裁判に訴えるしか方法がなく、提訴いたしました。「答弁書」において、学校側は常勤講師の業務について「常勤講師と専任教員の業務内容に大きな違いはないが、これは学校に常駐して生徒と人格的に接触する、教員という職業の性質上当然のことである。」と述べています。この言葉に異論はありませんが、そのように考えるならばなおのこと、私を学校に復帰させて頂きたいと思います。私は、2年間、学校に常駐し、生徒や保護者と「人格的に」接し、人間関係を築き、信頼関係を築いて参りました。それを、無視しこのように人間関係、信頼関係を分断することは、生徒の成長を考えた時に、大きなマイナスでしかありません。どうぞ、すみやかに審理を行い、1日も早く、私を待っている生徒達のいる学校に私を復帰させて下さい。お願い申し上げます。  

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連載⑤ 蒸気機関車SL物語

弁護士 野田 底吾


今回は太平洋戦争と蒸気機関車について述べる。

戦争は、国が戦力を維持できるだけの兵員と物資(特に燃料)を確保していなければ勝利できないだけに、これらを大量かつ迅速に移動する手段である鉄道の果たす役割は大きい。そこで政府は、日中戦争が始まるや、「鉄道は兵器である」とのスローガンを掲げて、一般旅客・貨物の輸送を厳しく制限しA、鉄あ道の重点を軍事輸送優先へと移して行った。元々、我国は軍用機や艦船の燃料たる石油の自給率が8%しかなく、需要量の80%を米国からの輸入に頼っていたのであるから、そこを相手に宣戦布告した以上、早々に米国に代わる新たな輸入先の油田を確保する必要に迫られていた。そこで政府は、開戦となるや否や、早々にボルネオ、スマトラ両島の産油地帯を占領し(蘭印作戦)B、そこから原油を内地へ海上輸送(還送)して、これを国内でガソリンなどに精製していたC。然し、早くも昭和17年6月には、ミッドウェイ海戦で主力戦艦を殆ど失い、ボルネオなどからのタンカーを護衛する能力を失ってしまったD。しかも翌年にはB29爆撃機により太平洋岸の精油所が殆ど被弾炎上してしまった事も加わり、早々に決定的な燃料不足を来たしてしまった。これを補うための満州撫順炭礦から産出される優良炭も、対馬海峡が封鎖され海上還送が困難となった為、唯一のエネルギー源は国内で自給できる石炭だけになってしまったE

周知の如く国内の石炭は、北海道と北九州の2か所が主な炭礦(生産地)で、北海道産は室蘭港などから京浜工業地帯まで海上輸送されていたが、米軍に制海権が握られていた為、万全ではなかったF。ただ北九州の石炭だけは、昭和17年6月に関門海峡トンネルが開通した事によって、本州への鉄道輸送が可能となっていたG。その石炭貨車(トキ900無蓋貨車)を牽引した主力機関車こそ、D51型 Hとこれを改良したD52型 IのSLであった。尤も、当時は既に鉄などの金属資材が極度に不足していた為、SLの排煙板 Jなどが木造化されたり、粗悪品や溶接不良などの出現でSLの故障事故が多発した K。これには、国家総動員法により青年男子の熟練機関士などが大量に軍隊へ応召され、熟練者が極端に不足した事や L、これを補う学徒動員者の増加と鉄道教習所などの指導体制が崩壊していた事により、SLの維持管理不良と未熟操作が続出した事も背景にある。背に腹を変えられぬ国鉄は、男子作業員の不足を補う為、「昭和18年は女子、19年は学徒で」の標語のもと女子挺身隊を組織し、多数の女性を出改札係や車掌、更には重労働の保線・転轍手として働かせた(写真⑮)。

昭和17年後半には、国内の制空権までもが殆ど米軍に握られた事から、物資輸送の根幹であるSL貨物列車が連日、米軍機の格好の攻撃目標となって行った M。走行中のSL運転室で機関士が機銃射撃を受けて殉職する事故が多発したN 為、国鉄は貨物列車に迷彩色を施したり、運転室に防弾装置を付けたりした。そして昼間はSLをトンネル内に隠して機銃掃射からの被害を防ぎ、夜間に走行する方法を取ったりしたが、それでもSLの前照灯や石炭投入口からは光が漏れ、これが攻撃目標となったりした。そこで、前照灯を筒状にしたり、運転室を黒幕で覆ったりする方法が取られたが(写真⑯)、運転室では、逆にボイラーの熱と排煙で機関士が炭酸ガス中毒を起こすなど散々な状態になったという。

SL以上に機銃攻撃の犠牲になったのは客車で、これにより工場へ出勤する動員学生など多数の乗客が犠牲になった O

ところで、爆撃により軌道が破壊された例は全国で無数にあるが、鉄道の重要性から、爆撃による路線の穴は人力作戦ですぐ埋め戻され、終戦まで鉄路が切断された事は殆どなかった P。特に、昭和20年8月6日午前8時の広島原爆の際には、既に正午すぎにはSL救援列車が広島駅から負傷者200人を収容して西条駅まで搬送し、折返し運転までして救護活動を行ったりしているし、8月9日午前11時の長崎原爆の際でも、午後2時すぎには遠くにSLの汽笛を聴いて浦上駅に集まった負傷者700人が、列車に乗せられて諫早まで搬送されており、その後もSLは4往復して2500人を収容している(写真⑰)。これが、発電所、変電所、送電線など多くの発送電設備を必要とする電気機関車では出来なかった事である Q。死の街と化した被爆地に、ポーツ、ポーツと鳴り響くSLの汽笛が、「ああ、鉄道が生きて動いている!助かるぞ!と思った」との証言にある如く 、SLはどれだけ多くの被爆者を励ました事だろう。



A 決戦非常措置要綱により、100㎞以上の旅行には警察の旅行証明書を必要とした。
B
オランダ領インドネシアのジャワ、ボルネオ、スマトラ島の石油産出量は年800KLもあり、日本が戦力国力を維持するに必要な年需要量500KLを上回っていた。そこで軍部は、開戦直後の昭和171月から3月にかけスマトラ島のパレンバン油田などを急襲して占拠した。
C 国内には海軍四日市燃油所、陸軍岩国燃油所、東亜燃料徳山燃油所など17ヶ所に石油精製工場があった。
D 昭和17年の国内還送量167KLは、昭和19年には79KL、昭和20年には0まで激減した。
E 昭和18年の内地石炭生産高5500万トンのうち4200万トンを国鉄が鉄道輸送していたが、昭和20年には生産高が2300万トンにまで半減し、うち1500万トンを国鉄が輸送していた。当時、石炭は「産業の米」と言われる程、貴重であった。
F 海上輸送距離を縮小する為に函館まで鉄道輸送し、そこから青函連絡船で本州に運ぶルートも実行されたが、昭和20年7月には青函連絡船も全部が撃沈されて輸送不能になってしまった。
G 高カロリーの石炭は製鉄に回され、SL用には常磐炭砿の粗悪炭しか配分されなかった。粗悪炭は褐炭、亜炭と呼ばれ、硫黄分が多くて炭素含有量が少く、火付きが悪くて完全燃焼しない為、登坂路線ではSLの馬力不足を来たす等、機関士から敬遠されていた。粗悪炭を使うと火室がすぐ石炭殻で一杯になってしまうので、走行中に火床を少し開けて殻捨てをせざるを得ず、しばしば線路脇の草木を燃やし火災を起こしたりした。
H D51型については、本稿第2回脚注Dを参照されたい。
昭和18年から終戦にかけ285両製造された戦時設計のSLで、自重85トン、1660馬力を擁し1200トン牽引が可能な貨物専用機関車である。
J SL前面の左右側面に取りつけられている屏風形鉄板を「排煙板」とか「デフレクター(通称デフ)」と呼ぶ。先頭部分に当った風を上向きの気流にさせ、煙突から出る煙を上方に流して運転室への侵入を避ける装置である。
K 昭和19年から21年までに285両製造されたが、昭和20811日山陽本線万富駅で、1019日東海道線醒ヶ井駅で(写真⑭)、127日山陽本線吉永駅で、ボイラー爆発などの事故が発生し、うち56両が廃車された。
L こうした在籍不在者は、国鉄現場職員の40%にも達し、代わりに156歳の少年機関助士や庫内手が急増した(写真⑭)。
M 戦争による車両被害状況は、SLが15%、貨車8%、客車20%、電車25%である。
N 椎橋俊之「SL機関士の太平洋戦争」(筑摩選書65頁)には「蒸気機関車の騒音が大きいので飛行機のエンジン音が聞こえないのです。バリッ、バリッと撃たれて初めて判る程で防ぎようがない。非常制動をかけて列車を停め、機関車の床下に潜り込むのですが、集中攻撃を浴びてカマを割られ走行不能となりました」。「銃弾に撃ち抜かれたボイラーから吹き出す蒸気で白魔の様になります。我々はいつも木栓を用意していてカマを打ち抜かれた所に木栓を打ち込んで漏れを止めるのです」。「運転室側面に20㎜厚の鉄板を巻き、運転席の後ろに竹筒を組んで砕石を入れ防弾壁を作りましたが、それでも防ぎきれず、多くの機関士が即死しました」と体験談が掲載されている。
0 その一例は、和20728日午前715分、鳥取発出雲行旅客列車が伯耆大山駅到着の直後、美保飛行場を攻撃した米軍機が襲いかかった事件がある。列車は駅長の指示で近くの切り通しに避難したものの、ロケット弾攻撃を受けて2両が半壊した。すぐ列車を米子駅まで急行し救出に入ったが、車内は血だらけの死体でいっぱいで、死者43人、重傷30人の大惨事だったと言う(脚注N出典73頁)。
P 小川裕夫「封印された鉄道史」(彩図社128頁)
Q 戦前、軍部が鉄道の電化に極めて消極的であったのは、こうした理由からである。
R 石井幸孝「戦中・戦後の鉄道」(jtbパブリッシング107頁)

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