1 平成27年3月23日,午後1時15分,神戸地方裁判所第1民事部(松井千鶴子裁判長)において,原告らの請求を棄却する不当判決が言い渡されました。
2 本件訴訟は,アスベスト粉じんに曝露して肺がんを発症し亡くなった,トラック運転手と溶接工の遺族が原告となって提訴した事件です。
溶接工の遺族は,国に対し,アスベスト使用を規制しなかった規制権限不行使を理由として,国家賠償請求を求め,トラック運転手の遺族は,クボタの孫請けであったことから,国に対する国家賠償請求のほかに,クボタに対して安全配慮義務違反及び不法行為に基づく損害賠償請求を求めて提訴しました。
3 本判決は,これら原告らの請求を全て棄却しました。本件訴訟では,論点は多岐にわたりましたが,判決は,①トラック運転手との関係では,国及びクボタにはアスベスト粉じんにより重大な健康被害が予見できず,予見可能性がなかった,②溶接工との関係では,高濃度のアスベスト粉じんに曝露したとの立証がないとして,原告敗訴の不当判決を言い渡しました。
4 アスベストに関する裁判例としては,大阪泉南アスベスト国賠訴訟最高裁判決(最高裁平成26年10月9日判決)により,国の責任が明らかにされています。また,石綿製造工場の労働者だけではなく,首都圏建設アスベスト訴訟東京地裁判決(東京地裁平成24年12月5日判決)や九州建設アスベスト訴訟福岡地裁判決(福岡地裁平成26年11月7日判決)などでは,建設労働者の被害についても,国の責任が明らかにされています。
さらに,当弁護団が担当した尼崎公害型訴訟最高裁判決(一審:神戸地裁平成24年8月7日判決,控訴審:大阪高裁平成26年3月6日,上告審:最高裁平成27年2月17日)では,石綿を取り扱う工場の周辺に居住していた人々が中皮腫など,アスベストを原因とする病気になったことが明らかになり,工場の操業者であるクボタに対して賠償を命じる判決が確定しています。
本件事案の特徴は,孫請けが元請に対して賠償責任を求めた点と,アスベスト製品のエンドユーザーが国に対して賠償責任を求めた点にあります。前者については,従業員や下請けについて,認めた裁判例はありましたが,孫請けについてまで賠償の範囲を認めたものはありませんでした。後者については,上記建設アスベスト訴訟における建築労働者以外で,石綿を取り扱ったエンドユーザーが国を訴えたものはありませんでした。
5 本判決は,こうした原告らの請求を棄却しました。極めて不当な判決です。本判決は,トラック運転手との関係で,争点の一つとなっていた,トラック運転手がアスベストに曝露していた態様及び曝露の期間については,原告の主張とおり,トラック運転手は,昭和36年6月ころから昭和41年ないし42年ころまで曝露していた認定をしました。ところが,国及びクボタに被害の予見可能性がなかったと判断したのです。この判決では,予見可能性の程度として,具体的な結果の予見可能性が必要だとし,アスベスト粉じんの低濃度曝露によって健康被害が生じるとの医学的知見は存在しなかったとしたのです。
6 しかし,アスベストの危険性は,早くから指摘されていました。アスベストの曝露により石綿肺になることは,昭和5年のイギリスの調査で判明し,昭和6年には,イギリスでアスベストの粉じん飛散を防ぐ石綿産業規則が制定されていました。日本では,昭和27年には,石綿肺の調査研究が行われ,国はその深刻な健康被害を把握していたのです。今回の原告らが発症した肺がんをみても,昭和27年には,第7回サラナク・シンポジウムという国際シンポジウムにおいて,石綿肺患者の発癌がん率の高さが報告され,昭和30年に報告されたドールの研究により,アスベスト粉じんに曝露することにより肺がんを発症することが,医学的に明らかにされたのです。
7 このように,アスベストによる健康被害は,医学的な研究が進めば進むほど,その深刻さが判明していきました。高濃度の曝露を規制することから始まり,研究の進展に従って規制の対象となる濃度が低くなっていきました。最終的には,アスベスト粉じんに曝露することそれ自体が危険とされたのです。
しかし,アスベストの危険性全体が判明しなかったこととアスベストが安全であることは全くの別物です。危険性が判明しないことは,それが安全であることを意味しません。アスベストの研究は,常に新たな健康被害を明らかにしてくものでした。つまり,その時々に判明していたアスベストの危険性は,全体のごく一部に過ぎず,安全性を保証するものではなかったのです。にもかかわらず,本判決の論理に従えば,危険とわかるまでは,使用を続けていても,危険性が予見できなかったとして法的な責任を免除するというものです。国や企業が危険物質の調査研究を怠れば,危険性が明らかになる時期が遅れ,その間の国や企業の責任が免責される論理であり,不当極まりありません。
本来は,健康被害をもたらす恐れがある場合には,安全性が確認されるまで,使用を禁止すべきなのです。危険性が判明するまで自由に使用させるというのはあべこべです。まして,その責任を認めない本判決の論理は根本的に間違っています。
8 他方,溶接工の被害者は,高濃度のアスベスト曝露がなく,喫煙が肺がんの原因だとして敗訴しました。業務上,アスベストに曝露して肺がんを発症したとの労災認定がなされているにもかかわらず,判決はこれを否定したのです。本判決がいうには,溶接工として働いていたものの,具体的にどのような業務をしていたか,具体的にどのような曝露をしていたか立証がないというものでした。
しかし,溶接工の被害者は,転職を繰り返していました。かつての職場は中小企業が多く,そのほとんどが廃業し,登記簿から会社の一般的な業務がかろうじてわかるものの,具体的な業務内容の立証はもはや不可能です。そのため,労働基準監督署は,溶接工という職種やかつての職場で石綿を利用していたとの回答を手掛かりに,10年以上,溶接工という職種を考慮してアスベスト曝露を認定しました。
これに対して判決は,職種が同じであっても,個別の職場ごとにアスベスト曝露の程度は大きく異なるので,一般的な職種をもって,アスベストの曝露は認定できないと判示したのです。事業所からの回答で,証拠上,石綿シートの使用が明らかな職場についても,本判決は,具体的作業内容や石綿粉じんの曝露状況は不明であるとして,この職場でのアスベスト粉じんの曝露を認定しなかったのです。結果,溶接工については,唯一作業の具体的内容を知ることができた昭和60年以降の最後の職場だけでしか,アスベスト曝露を認めなかったのです。この裁判所の判断は,被害者に対し,何十年も前の個別の職場での当時の業務内容を具体的に立証し,かつ,アスベストの曝露態様も具体的に立証せよとの不可能を強いるものです。
アスベストによる健康被害は曝露から数十年後に発症するため,被害発生時にはその証拠が散逸し立証が不可能になります。また,当時は今ほどアスベストに対する意識がないため,被害者自身も,アスベストを意識して働いていたわけではありません。ですので,被害者自身記憶にないことも多く,まして,被害者がなくなった後に,遺族が当該職場のことを詳しく知る術もありません。かつての職場の同僚も,何十年も経過すれば連絡がとれなくなってしまいます。
そもそも,日本ではアスベストの規制が遅れたため,職場毎のアスベスト濃度などの測定が行われておらず,個別の職場ごとのアスベスト曝露量を調べることが不可能です。本判決は,こうしたアスベストによる健康被害の特質を全く理解していない不当な判断です。
9 本件判決は,もともとは,平成26年9月に判決言い渡し予定でした。ところが,その約1か月後に大阪泉南アスベスト訴訟最高裁判決の言い渡しが予定されていると知るや否や,判決期日を取り消しました。裁判所は,最高裁判決と違う判決をいい渡すことを恐れ,最高裁判決の様子を見てから,その内容に沿うように判決を書きなおそうと考えていたようです。大阪泉南アスベスト訴訟最高裁判決後,国が泉南の原告と和解するとの報道に接し,裁判所は神戸でも和解をするものと思い込んでいた節があります。判決期日の指定を求めたところ,裁判所から国と和解しないのかとの質問があったからです。こうした裁判所の一連の態度は,判決書を作成する段階になっても,本件の被害者たちの被害に向き合わず,最高裁の方を向いたままであったということであり,その意味でアスベスト被害に対する裁判所の態度を如実に現した判決内容だったと思います。
10 このような,不当な判決は,到底許されるべきではなく,直ちに控訴し,その誤りを正していきます。
このページのトップへ2015年2月20日、あまりにも突然の訃報にただただ呆然としました。竹嶋先生との関わりは私たちの組合の闘いの歴史そのものでした。
竹嶋先生が竹内信一法律事務所(姫路総合法律事務所の前身)に参加したのが1976年。1973年5月29日に日本トムソン姫路工場労働組合を公然化(5月23日結成)した私たちは、会社の姫路工場スクラップ化と労働組合の分裂策動と闘っていました。そして、1975年2月に強行された大量配転に対する不当配転撤回闘争は1周年を超えていました。竹嶋先生と初めて会ったのが76春闘であり、この不当配転撤回闘争でした。竹嶋先生は竹内先生とともに組合の集会(学習会)に参加し、話をしていただきました。竹嶋先生が労働組合運動に関わったのはこれが最初ということでした。労働委員会での闘いも含め700日にも及んだこの不当配転撤回闘争は「人事異動に関する事前協議協定」を勝ち取り、1976年12月に和解が成立して終結しました。組合を結成して2年、数多くの不安を抱えながらの闘いの中、先生の存在は確信と拠り所として私たちを支えていただきました。以来今日まで一貫して力添えをいただきました。
初めての裁判闘争は、1978年9月から始まった寮、組合事務所追い出し裁判でした。この裁判闘争は、1982年11月、新たに組合事務所を貸与することで和解が成立しました。私も初めて裁判の証人を経験させていただき、今でもあの時の緊張は記憶に残っています。
1984年6月、私たちが、上部団体全国金属と袂を分かつ一つの要因となった組合差別撤廃闘争がはじまりました。地労委闘争を決議し、証拠の準備など全面的に先生の指導と協力を得て進められました。この闘いは、会社が話し合い解決を求めてきたため、僅か3ヶ月余りの10月に組合の全面勝利で終結しました。一方で、会社の姫路工場スクラップ化方針が撤回されたわけではありませんでした。作り出された姫路工場の「赤字」を理由に姫路工場の縮小化を画策。1992年12月、組合は「リストラに反対し、姫路工場を守る闘い」を決議。
1999年10月、会社は、姫路工場従業員の半数を削減する、大規模な人減らし合理化を強行。この攻撃と一体化した連合幹部は、「みんなで行こう」と推進役となり、いっきに工場つぶしの暴挙にでてきました。組合は、内示の白紙撤回を求める交渉と合わせ裁判闘争(①配転差し止め訴訟、②会社と連合組合に対する損害賠償訴訟)を構え、竹嶋先生と対策会議を行いました。「つぶされてたまるか」11・27職場総決起集会には、竹嶋先生にも出席いただき激励をいただきました。この闘いは、多くの方の支援と果敢な闘いで、裁判闘争に至らず2000年3月、まとめの団体交渉で、JMIU組合員の配転内示の撤回と「姫路工場の安定と発展、労使関係の安定と前進のために」という協定を締結して終結。姫路工場を守りぬくことができました。
この闘いを振り返って、竹嶋先生からことばをいただきました。
『今回の人減らしと合理化の攻撃は、これまでのすべての歴史と、会社なりの将来の展望の上に立って、始まりそして一つの区切りを迎えたものであろう。その点で、約25年間の歴史的闘争の到達点と成果を示している。
姫路工場の歴史は、再三にわたる人減らし、製品の移管の繰り返しによる赤字工場への作為的な「体質改善」であった。例えていうなら、瀬戸内海の歴史である。海が汚れたからといって埋め立てる。埋め立てが、海の汚染を引き起こす。この繰り返しなのである。
今回の中央本部、地本と支部の総力をあげたたたかいで、姫路工場潰しは大きく制約を受けることとなり、歯止めをかけることにはなった。いつかはやらねばならない闘争を、この時期で一定の決着を付けたと評価できるのではないだろうか。そして、次のたたかいの準備に取り掛かろう。』
JMIU日本トムソン支部の闘いの歴史は姫路総合法律事務所あってこそ、竹嶋先生がいてこそであったということをあらためて思います。本当にありがとうございました。
このページのトップへ新日鉄広畑争議団は、2005年12月26日、大阪高等裁判所による和解勧告を新日鉄株式会社(現・新日鉄住金株式会社)が受け入れ勝利しました。
この裁判において竹嶋健治弁護士は、勝利を勝ち取るために決定的な役割を果たしてくれました。
新日鉄が、1960年代から一貫して高収益を上げる体制を築くため「合理化」を強行してきました。これを阻止するために活動家は身体を張って反対運動を組織し闘いました。新日鉄は活動家を労働者から切り離し、職場から排除するためにあらゆる攻撃を仕掛けてきました。
こうした新日鉄の人権侵害と賃金差別の実態を明らかにしその是正のため5人の労働者(1人の退職者を含む)が1998年10月5日、神戸地方裁判所姫路支部に提訴し、闘いに立ち上がりました。
姫路支部判決は、「①会社は、労働者の要求を掲げ、職場に労働組合運動を根付かそうとした日本共産党員や真面目に活動する労働者を『闘争至上主義』などと批判し、作業長会等のインファーマル組織を通じて、組合役員から共産党員を排除するための活動等を行ってきたことを断罪しました。②会社は、原告ら共産党員が民青、共産党に入った事実を把握し、脱退工作をおこなったり、スパイになるように懐柔工作を行ったり、作業上必要なクレーンやフォークリフトの免許取得の機会を与えないなどの差別的取扱いを行ったことを認めました。③会社は原告ら共産党員を隔離職場に配置し、共産党員であることを理由に懇親会への参加を排除するなど差別的な取扱いをしてきた事実を認め、会社の分断工作を断罪しました。④原告や共産党員らは昇給面で最低レベルか最低から2番目に低いレベルの処遇を受けてきた事実を認めました。⑤原告らにたいする差別的取扱い、精神的苦痛を慰謝するために1540万円の慰謝料を支払う」という画期的な判決を勝ち取りました。
大阪高等裁判所は、法廷内外の運動の結果、裁判長が職権で和解を進め
1)1審被告は、1審原告らについて平成16年3月29日神戸地方裁判所姫路支部でなされた判決の趣旨を真摯に受け止め、今後、思想信条を理由とする差別的な処遇のなされることがないよう、憲法、法律、基本的人権等を遵守し、すべての従業員を公平、公正に処遇することを改めて約束する。
1審被告は、そのような趣旨をも含めて、コーポレートライフ相談室を設けているところである。
2)1審被告は、1審原告らに対し、本件解決金(弁護士費用を含む)として合計○○万円を支払うこと以上のように原告勝利の和解を勝ち取りました。
裁判は、5人の原告にそれぞれの弁護士が担当し進められました。竹嶋弁護士は、「会社は、自らの悪行を正当化するため、『ないことないこと』を並べ立てるがこれに一喜一憂していたのでは裁判にならん」と悠然としていました。また、「労働者を全面的に見なくては駄目でどんな人にも他人に誇られるものがある、その良いところをどれだけ裁判で明らかにするかが大切だ」といっていました。
裁判は、竹嶋弁護士が言っていたように進みました。「7年間の裁判の中での、会社証人による悪罵に満ち、白を黒にする悪口証言に対する怒りや失望・・・」(勝利報告集より、竹嶋弁護士が担当した原告の談話)
こうした会社の攻撃に、竹嶋弁護士は会社側の証人の証言の矛盾や弱さを徹底的に突き逆に原告側の得点に変え1審勝利に導きました。
「当然のことを守らせるのに、長い年月と膨大な労力を必要としました。原告の○○さんと7年間ペアーを組んで、原告と弁護団の団結を守ったことが、勝利への一つの力になったのだと思っています。○○さんどうもご苦労様でした。そして、ありがとうございました。この成果を、現在の日本の社会の進歩と発展に生かしていくことが、この裁判に携わった者の今後の役割だと肝に銘じています」(勝利報告集より)
このページのトップへ竹嶋先生、これまでのネスレ争議へのお力添えに感謝するとともに心よりご冥福をお祈りいたします。
あの日、竹嶋弁護士の突然の訃報に驚き、言葉をうしないました。
2015年2月1日の姫路革新懇主催の「姫路をしっかり見る」バスツアーに参加されていました。また、毎月6日の「戦争する国づくりストップはりま共同行動」の宣伝行動にいつも参加されており、2月6日も、マイクで、元気に市民に訴えをされておられ、亡くなられるとは思ってもいない中での悲しい出来事であり残念でなりません。
竹嶋弁護士は姫路総合法律事務所の中心として西播磨の労働争議に関わってこられ大きな力を発揮されていました。
飾らない人柄で相談しやすく頼りになる存在として西播にはかかせない人でした。
もう30年以上まえのことですが竹嶋弁護士が、団結とは「相互批判と自己批判」と言われたことがありました。お互いのあやまりを指摘できる関係、そしてあやまりに気付き受け入れることが出来る関係が労働組合には必要なんだと自分なりに解釈していました。
ネッスル日本労組姫路支部は、1982年の組合分裂以降30年を越えて何かと助けてもらいました。初期のネッスル労組支援姫路共闘会議の代表幹事として活動していただき、ネスレ日本姫路工場にも何回も足を運んでもらいました。
竹嶋弁護士の存在は支部役員はじめ組合員の大きな心の支えでありました。
中でもご苦労をかけたのは1997年8月ネスレが起こしたT支部副委員長に対する「暴力事件のでっち上げ」です。会社と警察の動きをみた組合は、国民救援会にただちに通報してすぐに姫路総合法律事務所で竹嶋弁護士も加わってもらい対策会議をもちました。
被疑者とされたT支部副委員長はじめ、参考人として3名の組合員と西播労連議長に呼び出しが始まり、警察、検察、裁判所からの呼び出しは不起訴勝利まで10回を超えました。また、組合事務所が強制捜査をうけるなど姫路支部存続も危ぶまれる状況だったと思います。
Tさんは、逮捕をちらつかせる警察、検察に対して出頭し、黙秘を貫き、1998年3月26日、不起訴を勝ち取りました。
この事件の最中竹嶋弁護士は健康診断を受けられました。その結果「精密検査の必要あり、胃潰瘍の疑い、高脂血症」と診断されました。
竹嶋弁護士が民法協の機関誌で『胃潰瘍の疑いは、ネスレ日本株式会社にその責任がある。と言ってもネスカフェゴールドブレンドを飲みすぎたものではない。今年の健康診断は「胃潰瘍の疑い」は消えているだろう。』と書かれていた事でもわかるように親身になってTさんを守り抜かれました。
もう一つにはAさんKさんの不当配転事件があります。
2003年5月姫路工場のギフトボックス職場閉鎖の発表があり、60名に対して茨城県の霞ヶ浦工場への転勤命令がだされ50名が退職に追い込まれました。
この時組合は、対象者の社員に姫路工場で働き続けようと学習会の参加を呼びかけ竹嶋先生に講師をお願いしました。参加者は5名と少なかったのですが、Aさん、Kさんの2名が退職しないで姫路工場で働き続ける決意を固めました。
この闘いは裁判となり、竹嶋弁護士はAさんを担当されました。
Aさんは、陳述書がなかなか書けず、竹嶋先生を悩ませてしまいました。しかし根気強くAさんに付き合っていただいたことで書き上げる事が出来ました。尋問の前には、「落ち着いて一呼吸おいて」と言われて、何とか受け答えができました。
この裁判は2つの仮処分と神戸地裁、大阪高裁、最高裁とすべてに勝利し、2008年4月、2人は職場復帰を果たしました。
約5年に及ぶ長いたたかいの中で竹嶋弁護士をはじめ、弁護団との信頼関係で不安が和らぎたたかい抜くことができました。そして、ネスレ争議も2013年10月1日和解し争議が終結しました。本当に長い間姫路支部と支部組合員に無償の愛でお付き合いくださり、いくら感謝してもしきれません。
組合としても個人的にも先生のご恩に報いておりませんが、先生のご意思を少しでも受け継いで平和の取り組みなどを通じて社会に貢献していけるように努めていきます。
竹嶋先生安らかにお眠りください。また、天国から私共を見守って下さい。
このページのトップへ森岡時男君
君とは長い長いつきあいでした。君は1960年、神戸の地場証券(神戸だけの小さな証券会社)に中学校を卒業して入社しました。そして夜は夜間高校に通っていました。当時は、最初の高度経済成長期に入っており、小さな証券会社も活況で仕事も忙しく君をはじめ数名が一緒に入社したように思います。また当時は60年安保闘争のさなかでもあり労働者はもとより国民的な反対闘争が高揚している時期でもありました。戦後の証券業界は金融業界の中でも非近代的な労使関係が特徴で証券会社は戦前「株屋」と言われていたように徒弟制度まがいの労使関係がまかり通り労働条件も劣悪でした。とくに中小零細の証券会社はその典型でした。君が入社した会社は従業員15~6名ぐらいだったと思います。その数年前から僕が働いていた神戸証券取引所(1967年に閉鎖)はすでに1950年代半ばからまき起こった全国の証券取引所の労組結成の波に励まされ昭和29年(1954年)に労働組合を結成しており労働条件や権利擁護等に成果を上げつつありました。
森岡君の会社と証券取引所は1階と5階の同じビルでした。森岡君は自分の会社と取引所員との労働条件の違いを知るにつれ疑問と不満が大きくなり自分の会社にも労働組合を作ろうという気持ちがわき起こり密かに職場の若い仲間と学習をはじめました。君の年齢はまだ20歳前だったと思います。若い10代の労働者を小僧扱いにしてこき使う経営者の態度が君の持ち前の闘争心と正義感に火をつけました。またたくまに若い労働者8人を仲間に引き入れ労組結成にこぎつけたのです。神戸の地場証券はじめての労組結成、いや全国的にも先駆的な結成だったと思います。先輩格の取引所労組は全面的に支援を行い、僕もまだ20代前半でしたが取引所労組の若い執行委員として学習会に組合会議に、また団体交渉にと一緒に活動しました。まだ10代を超えたばかりなのに君の指導力と闘争心、しかも交渉では経営者への気をも使った話し方などたいしたもであったというのが僕の最初からの印象でした。しかしまもなく森岡君の会社は零細証券の衰退のなかで廃業し会社解散となり君は退社を余儀なくされますが、小柄で色黒で弾丸のように走り回っていた君の姿を昨日のように想い浮かべます。
森岡時男君
会社を退職した君は、すぐさま神戸の零細企業で働く労働者の組織化のために活動をはじめました。そして1967年には個人加盟の神戸商業一般労働組合を立ち上げました。これが君のその後の人生を決める本格的な労働組合活動家としての第一歩となりました。そして1970年には全日本商業労働組合(全商業)に発展、全国で23県支部が結成されるまでになり、君は兵庫県支部の書記長として、後には全国の副委員長として活動を大きく広げていくことになるのです。兵庫県支部の分会公然化第一号になった国際ツーリストで現在も活躍している僕の友人は森岡君の訃報を聞き、20代の青春時代に森岡さんの指導をうけて活動出来たことが私の生き方を決めてくれたといっても過言でないと死を悼む言葉を述べています。
1974年の第一次石油危機はインフレを昂進させ「狂乱物価」ともいう事態が起こり労働組合は大幅賃上げを要求し中小商工業者や婦人たちも生活防衛のための運動と闘いに大きく立ち上がりました。これに対し自民党政府と大企業は本格的な賃金抑制に乗り出す一方、革新勢力の分断をはかる社会党の右転落策動、さらには小選挙区制の導入など自民党一党支配を続けるために手段を選ばぬ策動に乗り出しましたが、労働組合への最大の攻撃は当時の「総評」をターゲットにした労働組合の右翼的再編でした。賃上げ自粛や人減らし「合理化」を容認し「労使協調」、特定政党支持を基本路線とするこの右翼的再編に対し、「一致する要求での行動の統一、資本からの独立、政党からの独立」なくして労働者の期待に応えうるまともな労働組合といえないという批判が労働者の中からおおきく起こったのです。そして真の労働戦線の統一、階級的ナショナルセンターを結成しようという運動が全国的にも兵庫県においても盛り上がり、ついに1989年12月17日、「兵庫県労働組合総連合=兵庫労連」が結成されたのです。結成のための先頭に立って努力を重ねてきた君は、結成時の初の事務局長に就任、以降、第1期から2001年まで連続して事務局長、2002年から2004年までは議長代行を兼ねた副議長と一貫して専従活動を続けました。専従を外れてからも2005年から8年までは特別幹事、2009年から14年までは顧問と25年間にわたり兵庫県における階級的労働組合運動の発展のために奮闘してきたのです。小さな単産出身の森岡君が、地方とはいえ階級的ナショナルセンターの実質的まとめ役である事務局長の任務遂行には人には言えない難しさや苦しさや悩みもあったと思いますが、他の多くの単産や役員の信頼を受けて長年に亘り事務局長の任務を果たして来たことに君の組織能力の高さと人間性を見ることができます。
君が兵庫労連時代、一貫して重視していたのは神戸製鋼や川崎重工等における大企業の中の思想差別、人権侵害を許さない闘い、兵庫争議団に結集して闘っている中小零細企業労働者の闘いへの支援でした。青春時代に闘った経験から労働者の苦しみや悩み、怒りを自分のこととして実感的に受けとめることができたからであったと思います。
戦前・戦後から築き上げられてきた労働組合運動の戦闘的伝統を継承して結成された兵庫労連は労働者の利益だけでなく県民の利益を擁護し、平和と民主主義を守り、社会進歩のためにも貢献してきましたが、その真価をいかんなく発揮したのが未曾有の被害をもたらした1995年1月17日に発生した「阪神・淡路大震災」における救援活動と震災復興活動への兵庫労連の活動と役割でした。兵庫労連は大震災直後から「住民本位の復興・生活再建なくして、労働者自らの要求前進なし」の観点で、「救援復興兵庫県民会議」の中心的団体の役割を担いました。そしてその先頭に立ったのが事務局長であった君でした。
復興県民会議の活動において君は兵庫労連の責任者として文字通り全身全霊で取り組んでいたと共に活動した団体の幹部は語っています。「とくに森岡さんは大震災の被害に対して自治体、とくに神戸市を救援や人間復興の先頭に立たせるためにどうすればいいか。さらに国をどう動かすかについて大きな指導性を発揮されました。議論の中では、団体の固有の都合でなく、市民、被害者の立場に立って議論すべきであるとつねに強調されましたが、それは皆んなが個人補償や『空港より住宅を』という思いで共通していることに着眼した問題提起で、その後の運動が一挙に展開していきました」と述べています。そしてこの県民復興会議の闘いが1998年5月、日本で初めての「被災者生活再建支援法」成立の成果となって結実したことは周知の通りです。
2011年3月、東日本大震災が発生しました。その時君はすでに癌との闘病中でしたが東北の被災者団体から神戸の闘いと運動の経験を教えて欲しいとの要請を受けて、宮城県まで講演に行きました。告別式の日、本当に感銘を受け励まされた講演でしたとお礼と感謝の言葉が届きましたが、君が癌との苦しい闘病中にもかかわらずそのような活動をしていたことに驚くとともに、君の強い使命感をあらためて感じることが出来ました。
2006年(平成18年)、労働審判制度が発足しました。この制度の内容についてはふれませんが、君は発足時の2006年4月から2012年3月まで3期にわたり労働審判員としての任務につきました。兵庫県の地方労働委員会の労働者委員には兵庫労連推薦者は長年閉め出されていますが、兵庫労連推薦の君が初めての労働審判員の一人に就任したことは君の労働組合運動家としての経験と長年の活動が評価されてのことと思います。そして君は任期中、労働者の訴えに対し真摯に耳を傾け、その勝利解決のために大きな役割を果たしたのです。
しかし不死身と思っていた君に肺癌という病魔が襲いました。8年前とのことで2007年の発病(発見),兵庫労連専従を離れてからすぐの発症だったと思います。しかし君は必ず治して見せると闘病生活に入り5年後には癌を退治したと聞きほっとしていました。事実、最近までメーデー会場ではいつも会い、どう?と聞くと「大丈夫だよ」と言っていたのでさすがだなと思っていたところでした。しかし昨年末頃から容体が急に悪くなったと告別式の日、奥様から聞きました。夫は亡くなる前日まで苦しみながらも、人間はとにかく食べなければならないと食べ物を指で喉に押し込みながら食べようとしていたと語られました。きっと君の心には、まだ自分にはしなければならない事がある。まだ死ねないという気持ちがあったのだろうと思います。
森岡君、しかし君はもう十分働きました。労働者へも十分貢献してくれました。
君は遂に逝きました。証券労働者時代の20歳前半に別れて以来、君とは一緒の場所で活動してきたわけではありません。僕は1967年から5年間の神戸証券取引所閉鎖・全員解雇反対闘争を闘った後,日本共産党の専従を経て1991年からは自由法曹団の法律事務所で23年間働いてきました。そしてこの追悼文を書き終える頃には事務所を退職することになっています。しかし君とはつねに近い所で活動してきました。民主的な運動では一緒に活動もして来ました。だから君の活動はいつも目にもし聞きもしていました。
僕が法律事務所で働き始めたある日、君と兵庫労連の事務局次長の山口薫君と3人で互いの激励をしようと夕食会を行いましたね。本当に久しぶりに証券時代の想い出、労働戦線の問題などつきない話をしたことが忘れられません。相変わらず持論を熱弁する君が目の前にいました。しかし君が闘病生活に入ってからお見舞いにも行けず、今になって本当に心残りです。
森岡君、君とは50年以上にもわたっての同志であり友人でした。君との想い出は尽きぬものがあります。しかし君はもう僕の前には居ません。僕より数年も若いのに先に逝くことはけしからんですが僕もそう遠くない時に君の側にいくことになるでしょう。その時にはまた話の続きをしましょう。
最後に
告別式の日、奥様は「夫とは若い時『歴史勉強会』のサークルで一緒に勉強したのがきっかけでした。それ以来、夫と同じ考えで人生を過ごすことができ幸せでした。本当に誇れる夫でした」と述べられました。それを聞いた時、君の人生は幸福であったんだなと心から感じることができました。
森岡時男君、ありがとう。ご苦労さんでした。さようなら。
(2015年4月10日記)
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長時間労働を助長し過労増大につながる 労働基準法等等の改正(案)の閣議決定に反対する会長声明 |
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2015年(平成27年)4月3日 兵庫県弁護士会 会長 幸寺 覚 |
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1 平成27年4月3日,政府は,「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」の創設,現行のフレックスタイム制及び企画業務型裁量労働制の見直しなどを内容とする労働基準法等の一部改正(案)を閣議決定した。 2 「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」は,一定の労働者に関し,労働時間規制を適用除外とする制度である。対象とされる労働者は「高度の専門的知識,技術又は経験を要する」「業務に従事した時間と成果の関連性が強くない」業務に従事し,「労働契約により使用者から支払われると見込まれる賃金の額を1年間当たりの賃金の額に換算した額が基準年間平均給与額の3倍の額を相当程度上回る水準」以上であって,省令により決定される具体的な額以上の者とされる。 しかし,労働基準法(第4章)は,憲法27条に基づき,長時間労働を抑止し,労働者の生命,健康を保持する目的で,1日8時間1週40時間の法定労働時間を超える労働の禁止,週1回の休日を規定し,例外的に法定労働時間を超えた労働や休日労働をさせるためには36協定を締結したうえで,時間外割増賃金,休日割増賃金,さらには深夜割増賃金の支払を義務づけ,これにより時間外労働・休日労働・夜間労働などを制約してきた。「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」が導入され上記のような労働時間規制が適用されなければ,労働者の生命,健康が脅かされることになる。 「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」における長時間労働等に対する対策は,具体的には省令で規定されるうえ,①24時間労働経過前の休息時間付与・深夜業務回数制限,②在社及び社外労働時間の上限規制,③4週を通じ4日(年104日)の休日確保のいずれかに限定され,きわめて不十分といわざるをえない。よって,「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」が導入されれば,24時間超勤務や休日なし労働も可能であり,労働者の生命・健康に甚大な影響を与えるおそれが極めて強い。 また,収入要件が設けられているが,審議の過程において経営者団体が年収400万円超の労働者を同制度の対象とする希望を表明し,将来の同制度の対象者拡大を要望したことからすれば,労働者派遣法の対象業務の拡大と同様,今後,経営者団体の意向により,省令によって,国会での議論を経ずに,対象とされる労働者の範囲が拡大する懸念がある。そもそも,労働者の生命・健康の保護の要請が,当該労働者の年収額に反比例して低下することなどあり得ない。あらゆる労働者の生命・健康は画一的に確保されなければならず,収入が一定以上であるからといって労働時間規制を外してよいということにはならない。 3 フレックスタイム制については,清算期間を現行の1か月から3か月に延長するとしているが,1か月ごとの清算が不要となれば,清算期間到来までの時間外労働に対する制限は撤廃されることとなり,3か月間にわたり,長時間労働を助長することになりかねない。 また,企画業務型裁量労働制については,新たに「法人顧客の事業の運営に関する事項についての企画,立案,調査及び分析を行いながら商品やサービスの販売・提供の提案などを行う営業等の業務」,「事業の運営に関する事項の実施の管理と実施状況の検証結果に基づき,企画,立案,調査及び分析を行い,さらに同一事項の実施を行う業務」を追加するとしているが,業務遂行の手段・時間配分が全面的に当該労働者の裁量にゆだねられる余地のない営業や管理等の業務も含まれているし,同制度によって,「特定高度専門業務・成果型労働制(高度プロフェッショナル制度)」が適用されない広範な労働者に対し,割増賃金制度等の適用が排除され,結局,長時間労働を招く懸念が払拭できない。 4 時間外・休日・夜間における長時間労働の過労は,くも膜下出血,心筋梗塞,うつ病等を始めとする労働災害を発生させ,その結果,労働者やその家族らに対し,多大な労苦を与えてきた。一般労働者(フルタイム労働者)の年間総実労働時間が2000時間を超えるといわれる日本の労働時間は,今もなお世界最長レベルであり,「過労死ライン」と呼ばれる「月80時間以上の残業」に従事する労働者は,実に468万人と推計されている。 このような深刻な現状を受け,過労死及び過労自殺(自死)を防止するため,昨年11月1日に,過労死等防止対策推進法が施行され,現在,「過労死等防止のため対策を効果的に推進する」とした同法に基づき具体的な対策が検討されているところであって,これらの制度は過労死等防止対策基本法に逆行するものである。 よって,当会は,時間外労働等を助長し,過労増大につながる制度の創設を内容とする今般の労働基準法等の改正(案)に強く反対する。 以上 |