《第611号あらまし》
 パワハラを理由とした解雇事件の勝訴判決(一審)
 シリーズ~過労死・過労自死遺家族の声<第6回>
     IT関連会社管理職(プロジェクトマネージャー)39歳の過労疾病事件 概要
     夫の長時間労働による労災認定までの道のり~過労疾病家族として今を生きる~



パワハラを理由とした解雇事件の勝訴判決(一審)

弁護士 八木 和也


1 パワハラを理由とした解雇

兵庫県土建一般労働組合加印支部にてパワハラを理由とした解雇事件が発生しました。組合事務局員(女性)が同じ組合の後輩事務局員(女性)へパワハラしたことを理由として懲戒解雇されたという事案です。


2 兵庫土建加印支部

兵庫土建は兵庫県内の建築・住宅産業の事業者・労働者らが加盟する労働組合です(組合員2万4千人)。その中心的な業務は、建築・住宅産業労働者らが加盟する建設国保や労災保険の手続き代行です。

兵庫県土建組合加印支部とは加古川市などを担当エリアとする同組合の支部で、1700名の組合員を抱えております。事件はその加印支部の事務局内で発生いたしました。


3 加印支部事務局の実態

同支部事務局は4名で構成されており、それぞれが分担して組合員の建設国保・労災保険の手続き代行業務などを行っていました。同事務局では特に正式な事務局長などは置いておりませんでした。4名のキャリアは事件当時で長い方から順に22年(男性事務員以下ではTと言います)、16年(男性事務員以下ではSと言います)、10年(女性事務員、以下では0と言います(原告))、6年(女性事務員以下ではKと言います(被害者とされた女性))でした。

支部事務局は、支部役員らの監督下にありましたが、専従役員は0名で、常駐役員もおらず、支部長ですら月に数回の会議の際に顔を見せるといった程度で、事務局内の実情を知るものは、事務局員メンバー以外には一人もいませんでした。

つまり、事務局員相互の間に明確な序列は定められておらず、監督し得る地位にある者もほとんど実情を知らないといった状況であったため、指揮・監督権限が事実上空白になってしまっている職場であったのです。

そんな職場であったが故に生じた事務局員相互間の軋轢を、0が1人で責任を取らされる形で解雇されたという事件でした。


4 0とKの関係

0は6年前にKが入局して以来、Kの指導担当を担うことになったのですが、Kが0より年齢が上だったこともあり、Kへの指導についてはずっと悩んでいました。Kは入社間もない頃に0に対して「私、気が付かない人間なんで言ってください」と堂々と言ってきたり、コピー用紙が事務所へ届いたので2階へ持って上がるように言うと「雇用契約にそのような重たいものを持たなければいけないとはなっていません」などと言って拒否したり、休日に開催される支部役員らとの会議への出席をお願いすると「休日出勤があるなんて面接のときに聞いていない」と言って拒否したりしてきました。

0はKへの指導は自分では無理だろうと感じ、先輩社員のSにお願いをしてみても、Sは「年齢など関係ないんだし、0が言ってあげたらいい」と言って、取り合ってくれませんでした。一番ベテランのTは大人しい性格で、人に注意したり指導したりするようなタイプでは全くありませんでした。

本来であれば、ここで指揮監督権限を持つ者への指示を仰ぐ場面なのでしょうが、前述のような実態であったため、事務局員内で解決する以外になく、TやSの後輩である0は、TやSには逆らえず、Kの指導に当たらざるを得ませんでした。


5 0のKへの指導

0は、やむなくKの指導をひきつづき担当するのですが、Kの仕事への意識は一向に変わることはなく、急用が入ったときに年次有給休暇を取らずに帰ってしまったり、何度注意しても、支部内での状況を確認せずにいきなり本部に依頼していた事務処理の進捗の問い合わせをしてしまったり(すでに本部から支部に回答が来ていた)、仕事納めの日に他の事務局員は業務を終えて掃除をしているのに、一人だけ業務を続けていたりしたことに注意をするといったことをしていました。ただ、0のKへの指導はすべて業務についての事で、Kの人格を非難するようなものはただの一つもありませんでした(この点は加印支部も一貫して認めていました)。


6 パワハラを理由とした0の解雇

解雇の発端となったのは2016年8月31日の出来事でした。0はKのした事務処理が組合員にとって余計な手間をとらせてしまうやり方であったため、Kに注意をし、そのうえで「通じへん」「通じへん」「通じへん」と大きな声で言いました。

0は、Kがいくら指導しても組合員本位で仕事をすることができないことに業を煮やし、この日はおもわず感情を外に出してしまったのでした。

すると、Kは翌日には「0にパワハラを受けた」と支部役員(書記長)へ訴え「これ以上0と一緒に仕事はできない。0が辞めないのであれば私は辞める」と言って、暗に0の解雇を求めました。

そして、2016年9月5日に4役会議(支部長、副支部長、書記長、会計による会議)が開催され、そこで早々に0を解雇するとの方針が決まります。未だ、0はおろか、TやSからの聞き取りもしていない段階での決定でした。

しかも、8月31日の出来事の前には、事務局メンバーから役員らにはただの一度も0のSに対する指導が行き過ぎているであるとか、0がKをいじめているなどということは報告されていませんでした。もちろん、役員からの0への指導も一回もありませんでした。

にもかかわらず、支部役員らは、いきなりO解雇の方針を決めてしまい、そこから数日かけて順次K、S、Tからの聞き取りを終え、2016年9月21日付で0を懲戒解雇としました。

懲戒解雇を言い渡されるまで、0は役員から一度も聞き取りはされておらず、もちろん弁解の機会もなく、0にとってまさに寝耳に水の出来事でした。


7 団体交渉

以上のような経緯からも明らかなとおり、0が解雇されなければならない実態は全く存在していないし、そもそも動かしがたい事実として、0の解雇は適正な手続きをまったく踏んでおらず、この点だけでも解雇無効はあきらかな事案でした。

ところが、その後加印支部と明石ユニオンとの間で団体交渉が行われますが、加印支部は解雇を前提とした金銭による解決の方針をまったく譲らず、2017年5月24日、交渉は決裂となりました。


8 解雇無効を提訴

そこで、2017年6月23日付で、0は加印支部へ解雇無効と未払い賃金を求めて、神戸地方裁判所姫路支部へ提訴しました。

本事案は、客観証拠は全く存在していない事案でした。加印支部が解雇の理由とした0のKに対するパワハラの立証は、Kの「0から散々いじめられてきた」との陳述書、Sの「Kが0にいじめられていた」とする陳述書、Tの「0が戻ってきたら自分は辞める」という陳述書、数年前に退職した元事務職員Nの「0は精神的に不安定なところがある」との陳述書などでした。

当方の側も、証拠と呼べるようなものは存在せず、0本人の陳述書くらいでした(内容は0がしてきたのはいじめではなく、指導・注意だというもの)。

したがって、争点は、事実関係については、加印支部の提出してきた複数の陳述書とOの陳述書のどちらの信用性が高いかであり、あとは解雇法理に照らして、合理性・相当性があるかでした。


9 解雇無効判決

当方としては、事実関係については多勢に無勢というところがあるため、やや苦しい闘いも予想されましたが、解雇法理では適正手続きに違反しているし、解雇の合理性を根拠づける理由の認定は難しいだろうとの見通しを持ちつつ臨みました。

ただ、0本人としては、パワハラなどと言われる謂れは全くなく、この汚名を裁判で雪ぎたいとの強い思いがあったことから、事実関係でも完全勝利を目指すこととなりました。そこで、かなり詳細な陳述書を作り(5回の打ち合わせ、全23ページ)、法廷でも詳細に供述させて(練習4回、計10時間程度)、いかに0が仕事を真面目に取り組む誠実な人柄で、Kは仕事への意欲に乏しく、きちんとした責任を果たしてこなかったかを懸命に立証しました。

2019年3月4日、神戸地方裁判所姫路支部は解雇無効とバックペイの支払いを全額認める勝訴判決を言い渡し、事実関係もほぼ100%、0の側の主張を認めました。


10 まとめ

本事案では、立証責任が加印支部にあったという当方のアドバンテージがあるにはありましたが、客観証拠がない事実認定については、裁判所は陳述書・証人尋問をそれなりに重視せざるを得ず、そこへの注力がとても重要であるということを再認識しました。また、原告側では散々繰り返し主張した解雇法理や適性手続きの問題について、地裁判決は一切言及がなく、裁判所は労働事件特有の法理を持ち出すことに、躊躇があるようにも思いました。その意味でも事実認定はやはり重要でした。本件は控訴され、控訴審の審理が7月から始まります。

なお、担当は神戸花くま法律事務所の清田(途中産休・育休のため中神戸法律事務所の玉木へ交代)と中神戸法律事務所の八木でした。

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シリーズ~過労死・過労自死遺家族の声<第6回>
IT関連会社管理職(プロジェクトマネージャー)39歳の過労疾病事件 概要

この事件では、被災者の妻中野祥子さんが唯一の代理人となって、被災者ご本人と2人で労災請求を行い、再審査請求した労働保険審査会で逆転認定を勝ち取られました。そのため以下の概要も、中野祥子さんが執筆されました。

【概要】

大阪証券取引所に拠点がある某IT関連会社(本社・東京)の関西事業所(大阪市)に勤務するNさん(西宮市・昭和49年7月生まれ)は、平成26年2月17日午前10時50分頃、自宅で急性大動脈解離を発症。西宮協立脳神経外科病院に救急搬送され同日付で兵庫医科大学病院へ転院し緊急手術を行った(発症日は同年2月13日)。

翌2月18日午前10時30分頃手術が無事終了し一命を取りとめたものの、人工血管と人工弁に置換して障害者手帳1級の障害等級に該当する障害が残った。

Nさんは退院後も予後不良で平成26年3月20日に嘔吐を繰り返し、体調不良を訴えて平成26年3月20日から平成26年3月24日まで兵庫医科大学病院へ再入院した。左手と左足に麻痺が出現し歩行困難となり呂律が回りにくい状態であったため再検査した結果、脳梗塞を発症していることが判明。平成26年3月28日から平成26年4月3日までの間、3度目となる入院をした。

Nさんが勤める会社では、時間外労働の労使協定(36協定)が結ばれており、上限時間である月51時間を超えないように時間外労働時間を過少申告することが常態化していた。Nさんは月に数回、自身の会社用PCを操作して過少申告を行っていたが、疾病発症直前は業務が忙しくそれどころではなかったため、過少申告して修正された勤怠時刻と過少申告せずに実際働いた実労働時間がそのまま勤怠記録としてPCの勤務状況報告書に残っていた。その時間が72時間24分であった。

Nさんは平成26年4月15日に大阪中央労働基準監督署に労災申請を行ったが、労基署は発症前1か月間の時間外労働はPCの勤務状況報告書に残っていた72時間24分であったと判断して過重労働による発症は認めず平成26年7月に棄却した。

その後、Nさんは大阪労働者災害補償保険審査官へ不服申し立てを行った。審査官は自宅での作業を一部認め、時間外労働時間は78時間34分と認定するも平成27年3月に棄却。

その後に続きNさんは再審査請求を行った。審査会はNさんが出退勤時に打刻する会社で共有されていた端末記録を基に発症前1か月の時間外労働を92時間18分と判断。自宅に持ち帰った作業についても17時間は業務に従事したと認めたうえで、「そのまま労働時間として評価することは適当ではないが負荷要因の1つとして評価する」とし、過重労働により急性大動脈解離を発症したとして平成28年9月に労災認定した。

現在Nさんは職場復帰を果たし、月1回の産業医との面談を行いながら体に負荷がかからない範囲内で仕事を続けている。

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シリーズ~過労死・過労自死遺家族の声<第6回>
夫の長時間労働による労災認定までの道のり~過労疾病家族として今を生きる~

中野 祥子


私の夫は長時間労働により39歳で急性大動脈解離を発症しました。夫は大阪証券取引所にある某大手IT関連企業に勤務していて現在も病気を発症する前の職場に復帰して仕事をしています。夫は平成24年12月にグループ会社の人材公募に自ら応募し、今の会社に転籍をしました。転籍後は8つのプロジェクトを統括管理するプロジェクトマネージャーという職種に就きました。当初は契約上2年間出向して働く事になっていましたが、転籍先の部長から早く来てほしいという要望があり、僅か半年ほどで転籍となりそれからというもの日を追うごとに業務量は増加していきました。


1日2、3時間しか睡眠とれず 急性大動脈解離を発症

平成25年12月の師走に納品前のシステムトラブルによる顧客のクレーム対応や休職者や退職者の発生が相次ぎ、時間外労働時間は152時間を超えていました。毎晩午前0時過ぎの帰宅と帰宅後もリモートアクセスといって自宅PCから会社のサーバーにアクセスして遠隔操作でシステム検証をしたり、見積書の作成やメンバーの全員の勤怠管理などの庶務にも追われ、倒れる1か月前の睡眠時間は2、3時間ほどしか取れない悲惨な状況が続きました。当時私は臨月で出産を控えており、夫の長時間労働を案じてはいましたが「人手が足りない状況でプロジェクトリーダーの自分が休める状況にない」という夫の責任感を否定する事はできませんでした。夫はまさに強制された自発性のもと睡眠時間を削ってまでも働かなければならない状況に追い込まれていたのでした。

そして遂に平成26年2月17日未明に夫は自宅で奇声ともいうべきうめき声を上げながら倒れました。私は睡眠時間が2、3時間しか取れない状況が続くと人間は精神をきたすか体にくると身をもって知りました。夫は救急車で運ばれ、大学病院で20時間にも及ぶ大手術で一命を取り留めましたが、胸部大動脈は人工弁と人工血管に置換し腹部の大動脈は今も解離したままです。一生、抗血液凝固剤を服用しなければならない障害者手帳1級の体となってしまいました。

私自身、「過労死」という言葉はメディアで取りざたされていたのでよく耳にする言葉でしたが、夫が過重労働で倒れるまでは単なる「言葉」の1つにしか過ぎず、真実味にかけた絵空事に近い言葉でしかありませんでした。その絵空事のような言葉が現実味を帯びて夫が倒れた時、仕事が間違いなく原因であると確信しました。


労災申請に立ちはだかる 会社からのプレッシャー

労災申請から認定されるまでは「苦労」という言葉では到底言い尽くせないほどの苦しみ、辛さ、絶望の道のりであり、それら全てを一身に受けることになりました。  

勤務先は夫が労災申請するというと、社長面談を行い「なぜ君は労災を申請するのか、どうして仕事が原因と思うのか」と聞いてきました。夫は当時の自分の働き方やプロジェクトのトラブルが続発していた状況を説明し、家族が申請を希望しているという旨を社長に伝えました。社長が直に社員一個人と面談することは、大手企業のグループ会社に所属する社員であってもそうそうあることではありません。社長面談に呼ばれた当時の夫の気持ちを思い量ると相当なプレッシャーであったであろうと推察します。労災を申請するということは会社に盾をつくことになる、会社を敵にまわすことを意味するという暗黙の「圧」なるものを私自身感じていました。法律上労災は請求主義で被災者自身が手をあげないと監督署は動かないし、そもそも会社を訴えているのではなく、国に対して手を上げて申請しているんだと頭では理解していても、実際元の職場に戻って仕事をしている夫を考えると、労災請求すること自体果たしてそれが家族として「正」なのか、その判断すら間違っているのではないかと自身の信念がぶれる局面がいくつもありました。夫との仲も労災請求することで何度となくぶつかりあい、口論となり「労災離婚」という言葉が何度も頭をよぎりました。会社のために働いて倒れたのに何の責任もないという態度の上司、いつどうなってもおかしくない夫を一生介護する私の気持ちや緊張の連続の日々を誰がくみ取ってくれるというのか。怒りと悲しみ、そして今後の生活への不安が常にまとわりつき、家庭内は不穏な空気で充満していました。


1人で資料作成、NPO法人とも つながり遂に労災認定

再審査請求までは1年半と言えども長い道のりでした。最初の労災申請で棄却された後、私は産後の体でままならぬ状態であったものの、土日は自身が学んだ大学の図書館に行き、法律の本を調べ倒して審査請求、再審査請求に向けて朝の9時から閉館夜9時までひたすら資料作りに埋没する日々を1年半ほど過ごしました。

夫が倒れた時にインターネットで「労災」「長時間労働」「疾病」といったキーワードで検索をしたところ、これら検索用語は「過労死」というキーワードに結びつき、「あぁ、生きている者の相談窓口はないのだ」とひとり落胆したことを今でも覚えています。過労死労災認定に強いというキャッチフレーズの弁護士事務所のサイトにいくつかヒットはしましたが、本当に親身になって協力してくれる弁護士がどこの誰なのか見当もつかず、結局1人で夫の労災請求をして闘う意思を固めました。

しかしながら審査請求で再び棄却となり、1人で闘うことの限界を感じた折、インターネットで労働者の駆け込み寺として神戸にあるNPO法人とつながり、当該NPO法人の事務局長にコンタクトをとって自身が作成した資料の添削とアドバイスをいただくことができました。見ず知らずの相談者の話を親身になって聞いてくださり闘ってくれる人が1人でもいることに涙し感謝をして夫と2人で臨んだテレビ会議による再審査請求で労災が遂には認められました。


ハラスメント等を許す企業風土が 過重労働・長時間労働を生む

労災申請をする中でいろんな困難にぶつかっては不条理を幾多も感じ、「世の中に正義は存在するのか。法律上の正義って一体何なのだろう。」そんなことを悶々と自問自答し考える日々をたくさん過ごしてきました。過労疾病家族として労災を請求したことを通して会社と労基署の問題点を考察するに以下の問題が浮かび上がってきました。

過重労働が発生する会社内部の問題としてひとつには「人」にまつわる内在化した問題が職場内で具現化し人為的に発生しうるということです。具体的には、

① 勤怠システムが適正に運用されておらず、残業の自己申告制が過重労働を生み出す機能と化している

② 上司から残業抑止の直接的指示や暗黙のプレッシャーをかけられ、休憩時間もまともに取れずに業務に従事させられている。またそのような状況を是認する風土が会社全体に蔓延しており、問題視されていない。

③ 管理職によるハラスメントの横行と違法性のある指揮命令がある。言いたいことを言える職場ではなく、見ざる、聞かざる、我関せずという風潮が根強くある。明日は我が身と現場社員は恐れおののき、その場を日々やり過ごしている。

④ 管理職による適正な労務管理がなされず現場を漫然と放置している。(労働保険社会保険諸法令に関する知識不足とそこから発生するコンプライアンス違反)

⑤ 人手不足によるヒューマンエラーの発生

連日報道される過重労働や長時間労働による過労死や過労自死などからも過重労働や長時間労働はそれ単体で発生することはなく、必ずといっていいほどハラスメントと一体となり発生していると言っても過言ではないと思います。


調査官・審査官の聴取スキルの不足を痛感

また労働基準監督署の問題点として、調査における聴取を急ぐあまり、画一的な事務処理を優先にした調査内容に終始し、労働者の負傷、疾病、障害、死亡等に対して迅速かつ公正な保護を目的とする労災法の立法趣旨から外れ、災害当時の勤務状況が正確に把握されていないことが問題にあるように思われます。画一的な聴取が結果事実誤認につながったり、あるいは本来労災認定されるべき被災労働者が労災認定に至らないおそれがあるのではないかということを危惧しています。人材不足の中にあっても「平準化された調査官の聴取スキル」の担保は必須です。夫の労災請求に関して一番問題であったことは、当時の勤務状況(労働時間および休憩時間の算定)を正確に把握する調査官のヒアリングスキルが決定的に不足していたことだと考えています。 監督署の調査官から当時私は「事実が曖昧にならぬようなるべく早めに面談をした方がよい」ということを直接電話で告げられました。記憶が曖昧になるといけないと言われたことから、体調が万全でない夫を無理に面談に行かせ、体力面、精神面において相当な負担を強いてしまったことは今でもとても後悔しています。

加えて審査請求においても、審査官が夫の勤務先へ聴取するに際して、私は審査官へ手紙を出して「夫が元の職場へ復帰していることもあるので、会社上司への聴取においては今後も夫が会社で働くことに支障をきたすことがないよう最大限のご配慮をいただきたくお願いしたい。」といった内容を書面で送ったところ、後日すぐ審査官から電話が入り、審査官は「被災者と会社との関係まで担保することはできない。」といった弁明を1時間ほど繰り返し言い続けました。私としては夫が今後も同じ会社で働くにあたり、行政の調査が入ることで夫が働きづらくなることがないよう配慮をお願いしたい気持ちを伝えたかっただけのことが、まさか審査官から1時間にもわたり電話で弁明をされるとは予想外のことで辟易としたことは今でも信じがたい事実です。

このような体験から、調査官や審査官は正確に情報を収集し調査するスキルの担保は必須であることは当然のことですが、それ以上に被災労働者の置かれた現況や気持ちを汲み取る倫理観を兼ね備えた調査官と審査官らの育成が急務であり、またプロとしてもつべき当然の能力ではないかと考えています。


家族だけでは抱えきれない 労災認定までのハードルと不条理

労災認定後も一難去ってまた一難な日々が続きました。休業補償給付における給付基礎日額は過少申告していた実態と乖離した時間外労働時間を基に平均賃金を計算されていたため、労災課長に自庁取消しを申し出て再計算させました。また療養補償給付の起算日をめぐっては、過労による風邪と誤診された近医を受診した日を発症日とすることも審査請求をして初めて認められました。なぜ被災者本人がいちいちひっくり返さないと正しいことが認められないのか、労働基準監督署はいったい何を仕事としているのか。納得がいかないことに手を上げなければ正しく判断してもらえないことに請求代理人として立っていた私は都度疲弊しきっていました。

労災補償、過労死という問題を考えるに、認定には基準があり被災者やその遺族や家族にとっては高いハードルであることが問題としてあげられます。何より請求主義であり、遺族、本人が立証しないと認定されない現行制度の問題があります。労災認定イコール過労死ではありません。認定されているのは過労死、過労自死、過労疾病のごく一部でしかなく氷山の一角です。私は夫の労災が再審査請求で認められなければ、夫が元の職場に戻っていることからも裁判にまで長期化させることは家族としてできない、あきらめるほかないと決断していました。労災は申請するにもハードルが高く、認定までに時間がかかり長期化することから、長い闘いの中で家族が崩壊しバラバラになってしまうこと、最悪の場合は労災離婚がありうるということはあまり世間では知られておらず理解されにくいところです。家族がそれぞれに不条理さを抱えて共に生活し続けていくことは苦行でありかつ深刻な問題です。家族愛だけでは乗り越えられない切実な問題がそこにあります。今もなお労災が認められて然るべき人が認められないまま不条理さを抱えて生きている人はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。


過労死・過労疾病をなくすために

私は今、ひょうご過労死を考える家族の会の一員として、国の事業である過労死等防止啓発授業で大学や高校、専門学校でこれから社会に出られる学生に向けて労働問題に関する啓発授業をさせていただいています。若者が自分の命は自分で守ること、働くこととはというテーマについて自ら考えてもらうきっかけになればという思いで授業をさせていただいています。啓発授業を通して、自身の内に溜め込んでいる恨みつらみを明るい希望に変えていきたい、負の思いを昇華していきたいという思いのもと、また啓発授業という機会を与えていただいている「今」に感謝しながら一期一会の授業に臨んでいます。

労災が認定されても全てが円満に解決することはありません。傷ついた体は元に戻ることはなく、いつ死んでもおかしくない事実とどう向き合い生きていくのか、不幸にして労働災害に遭った者とその家族が一生考えていかねばならない切実な問題です。諦観するでもなく宥恕するでもなく、その事実を粛々と受け止め生きていくことに答えは1つではないと感じます。

労災認定された決定書が届き家族で喜んだ時、上の子供(長男、現在中学1年生)が「お母ちゃんの笑顔が一番や。」と言ったことが忘れられません。夫がうめき声をあげて自宅で倒れ、そこから家族のため、夫の名誉回復のためと1人で闘うことを決意し労災申請から再審査請求まで闘った1年半、私はいったいどれだけキツイ形相と嫌悪に満ちた顔で過ごしていたのだろうと、子供を犠牲にして過ごした日々であったことに気づき本当に申し訳なく思いました。

「働き方改革で過労死はなくなるか―。」私は夫の労災を通して出逢うことができた過労死ご遺族や過労疾病ご家族、そして過労死撲滅を使命とする弁護士や社会保険労務士の先生たちとこれからも共に考え、闘っていきたいと考えています。

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