《第615号あらまし》
 シリーズ~過労死・過労自死遺家族の声<第7回>
     銀行系情報処理会社副部長48歳の過労自死事件 夫の過労死~今を想う
 Kさん過労死事件の概略



シリーズ~過労死・過労自死遺家族の声<第7回>
銀行系情報処理会社副部長48歳の過労自死事件
夫の過労死~今を想う

妻 A.R.


【概要】

兵庫県内の某銀行グループの情報処理会社(神戸市西区)の元副部長48才は,システムエンジニアで開発の仕事に従事していた。

新規受注したシステムの整備が難航し、2008年12月頃から残業が増え12月の残業時間75時間半、その後の残業時間105時間とさらに多忙を極め、体調を壊し2009年8月にうつ病と診断され休職に至る。自宅での治療が難しくなり同年12月から翌年3月末まで4ヶ月(北野坂病院)に入院。軽快したと思われ復職に向けて退院した2日後の2010年4月2日自宅マンションから飛び降り亡くなる。

2011年3月 神戸東労働基準監督署に労災申請

2011年9月 不支給決定

2011年11月 兵庫労働保険審査官に審査請求

2012年6月 労災認定

2013年9月 会社と和解


夢にも思わなかった過労によるうつ病と自死

夫はうつ病を発症し、4ヶ月間の入院後、退院して2日目に自死しました。3月に入った頃から体調も良くなり、夫が「何時までも会社を休むわけにもいかないし、会社に行くわ!」と言うので会社と復帰の話し合いをし、ゴールデンウィーク明けから復職するようになっていました。私自身も夫の病気が良くなり体調もよさそうでしたから安堵していましたので、夫が自ら死ぬ事など思いもよりませんでした。

システムエンジニアで開発の仕事をしていました。納期が近づくと帰宅時間は夜11時過ぎ、月の残業時間は100時間以上の状態が3ヶ月~4ヶ月程続きましたが、残業が続くような働き方が当たり前になっており,おかしいと考えたこともなく、毎日を過ごしていました。仕事の成果は5段階にランク付けされ、査定を気にしながら管理職に昇進したことから来るストレス、責任も重くのしかかり、上と下との板挟み、新規受注した親会社の銀行経営システムの整備が難航し、大きな仕事なのにスタッフの補充もないまま一人で仕事を抱え込んでしまい、仕事の量だけが増えてしまい,うつ病を発症していったのです。

うつ病と診断されても何の知識もありません! 相談するところも分からず、頼る所は病院しかありませんでした。病院のカルテに[自分のスキルが下がったのか、それ以上に仕事の量があるから出来ないのか、分からない]と仕事で悩んでいる様子を知ることが出来ました。

過重な働き方で身体を壊してうつ病になるなど夢にも思いませんでした。過労死という言葉はニュースなどで見聞きしていましたが、「過労死」という意味までは深く考えたこともなく、全くの他人ごと、私たちには関係無いで済ませていました。

過労死についてもう少し知識があれば、夫の働き方はおかしいと感じたことでしょう! 寝られない、食欲が無いなどうつ病の症状が出ていたのに、正しいうつ病の知識が無いがために気が付かなかったことなど、あの時気付いていれば…、もう少し違っていたのでは…、などとふと考えてしまう時があります。心の奥深くに、言葉にうまく表現出来ないのですが、塊があります、何時になれば取れるのでしょうか? きっともう取れることは無いんでしょうね。


労災申請と過労死認定までの苦難

カルテの内容からも夫の自死は仕事に間違いないと労災申請をしました。しかし、申請をするには遺族が夫の仕事の過重性を立証しなければならない事等何も知らず、会社に労災申請をします!と伝え必要な書類の提出をお願いしたところ、態度は一変し、残業時間は80時間以内ですから労災ではないと言われ、同僚の方や部下の方に会社での夫の様子を聞きたいとお願いしても、誰一人会っていただけませんでした。証拠保全の申し立て手続きをして、やっと証拠がそろい労災申請が出来ました。

神戸東労働基準監督署へ労災申請した結果は不支給でした。何も分からず一から始めた労災申請でしたが、その間には労災についていろんな事が少しは分かるようになっていましたから、この不条理な不支給決定を到底受け入れることは出来ない!と腹立ちを覚えました。生前の夫のいろんな事を思い出しながら辛い思いをして書類を作ったのに何で!と落胆したり、労災申請なんかするのではなかったと思ったりもしました。私自身の精神状態もとても悪く、何も手に付かない状態になっていましたが、せっかくここまで頑張った事が無駄になると思い、審査請求をしました。

審査請求では病院の先生の意見書、私も家庭に問題は無い、夫がうつ病になったのは仕事しかありません!と思いつく限りの言葉を書いた書面を提出しました。

審査請求で不支給決定を取り消し、逆転認定されました。決定理由は親会社の銀行の新規受注したコンピューターの言語が今までと違い、システム整備が難航して残業時間が105時間に達し、心理的負荷があったと判断されました。

審査請求で過労死と認定されましたが、その間、会社からは「家庭に問題があって、うつ病になられたのでは?」と言われて辛い思いもしましたが、労災申請したことで自死の原因は本人が悪いわけでもなく仕事であったのだと、9年過ぎてやっと少し思うことが出来るようになりました。それでも、悲痛な想いがとれる事はありません。


啓発活動に思う事

自分達のような悲しい思いをする家族をこれ以上作ってはならない!との思いで過労死遺族達が働きかけた事で過労死防止法が制定され、国は過労死を防止するために啓発活動等をすることになり、若者の過労死防止として学校等へのワークルールの授業が始まりました。

将来を担う若者が「働く者の法律や権利」を学んで社会へ出ることは過労死を防ぐために必要な事です。[知ることは、すべての思考、行動の原点]です。

正しい知識を身につけることは自分自身を守る事につながるとの想いから啓発授業に弁護士の先生、社労士の先生方と参加しています。

私のような過労死遺族にならないようにするには、どうすれば良いのか、過労死の無い社会を目指して、私に出来ることは何か、手探りしながら考えていきたいと思います。

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Kさん過労死事件の概略

弁護士 玉木芳法


1 はじめに

Kさんは、美容師の資格を有しており、平成24年3月5日に株式会社ジェイアンドシーに入社し、美容師として訪問理美容業務に従事していた。訪問理美容業務とは、申し込みのあった施設等に出向いて、その施設の入所者に対して理美容の施術を行う業務である。

平成26年4月1日、Kさんは前任者の退職により芦屋支社の主任となった。主任には、通常の理美容業務のほかに、半期ごとの人員配置等を定めた半期カレンダーの作成、毎月のシフト表の作成、シフト調整、新人の研修レッスン計画の作成、社員同士の情報交換や講師を呼んでの学習会を企画するなど、様々な業務が課されていた。これらの業務は、通常の理美容業務が終わった後にやらざるを得なかった。そのため、Kさんは発症前6か月間で平均124時間以上の残業を余儀なくされていた(なお、この時間には自宅での作業時間を含めていないことから、実際の残業時間はさらに多い)。

その後、平成29年5月22日からは本社の配属となり、営業と近畿各地の理美容業務の応援業務に従事するようになった。同社は社長によるワンマン経営であり、自分の気に入らない社員の落ち度に対しては、一方的に叱責し罵声を浴びせ、時には人格まで非難することがあり、Kさんも何かにつけて社長からの叱責を受けていた。本社勤務時は、不慣れな営業業務に加えて、社長とも日々顔を合わせながらの業務となり、極めて強いストレスがかかっていた。

平成29年8月31日、Kさんは辞意を表明したところ、社長の逆鱗に触れ、9月1日付けで再び芦屋支社に配属されることになり、日程表やシフトチェックなどの業務を行うようになったが、この頃は、社長からの風当たりがさらに強くなっていた。

以上のような、長時間労働及び社長のパワハラなどによる疲労の蓄積により、平成29年10月20日午前3時頃、自宅リビング横の部屋で仰向けになったまま心臓性突然死により死亡した。当時、Kさんには、妻(申立人)及び、12歳の長女と6歳の長男がいた。

Kさんは、まじめ、几帳面で、責任感が強く、部下や後輩の面倒見がよく、部下や後輩からの信頼は非常に厚かった。そのため、Kさんの労災申請の準備にあたり、非常に多くの部下からの協力があり、Kさんの勤務実態を詳細に把握することができた。

令和元年9月3日、西宮労働基準監督署に労災の申請を行い、現在、審査待ちの状況である。

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