本件は、ホテルの従業員として勤務していた原告が、ホテルを運営する被告会社に対して、未払残業代の請求をした事件です。原告は、2020年7月から被告会社にて勤務を開始し、2023年7月に退職するまで、毎年1年間の期間の定めのある雇用契約を更新してきました。原告の勤務するホテルはいわゆるラブホテルで、原告はフロントでの受付業務から居室への飲食物の提供、退室後の清掃まで行っていました。驚くべきはその勤務形態であり、原告は1回24時間またはそれ以上の拘束時間の勤務シフトで労働し、勤務時間は多い月で400時間を超え、時には48時間連続勤務という過酷な労働環境に置かれていました。このような過酷な労働環境により原告は体調を崩し、被告会社を退職しました。被告会社からは毎月就業規則に従って残業代が支払われていましたが、それでは法定の残業代を支払ったとは言えないとして、原告は未払残業代や付加金の支払を求めています。
被告会社においては、1か月単位の変形労働時間制が採用されていました(労働基準法32条の2)。すなわち、1回24時間勤務を基本とするため、1か月単位で177時間を超えた労働時間に対して残業代を支払うとされていたのです。しかし、この変形労働時間制は、1週間あたりの平均労働時間が40時間を超えない定めをすることが要求されています。したがって、残業代の発生を抑えるべく明らかにこれを超えるようなシフトにおいて脱法的に利用されている場合は、変形労働時間制の適用はその要件を満たさず認められません。
本件では、当初から週の労働時間の平均が40時間を大きく上回るシフトが設定されており、被告会社側が変形労働時間制を悪用したと思われる事情が伺われました。そのため、本件では変形労働時間制の適用は認められず、原則通り、1日8時間、週40時間を超えた労働時間は全て時間外労働に該当すると考えられます。
本件は、2024年5月に神戸地方裁判所に提訴しました。第1回期日は、7月に予定されており、審理はこれから開始されますが、しっかりとその労働実態を主張立証し、変形労働時間制を悪用するようなケースに対して警鐘を鳴らす結果を得られればと考えております。
また、原告は、現在長時間労働を原因とする精神疾患について労災申請中であり、今後労災認定を得られる可能性があります。そのため、今後被告会社に対しては、損害賠償請求など請求を拡張していくことも予定しています。
本件は與語弁護士と私とで担当しています。
今後の経過にご期待ください。
このページのトップへ前田先生、本当にご苦労様でした。前田さんに生前、最後にお会いしたのは何時なのか思い出すことができません。それ以前のお元気な頃の前田さんの記憶は鮮烈です。
前田さんと民法協との関係ですがもう半世紀前のことです。前田さんは、1973(昭和48)年、米田軍平(当時の中神戸事務所所長)弁護士の後を受け、第11回総会で民法協事務局長(2代目、補佐役の次長は野田底吾弁護士)に就任されました。参考までに当時の民法協幹事弁護士を紹介(民法協ニュース51号)しておきますと、足立昌昭弁護士(尼崎合同・故人)、井上逸子弁護士(中神戸、ご主人は民事訴訟法学者の井上治典教授・故人)、岩崎豊慶弁護士(当時、姫路総合)、垣添誠雄弁護士(尼崎合同)、木村治子弁護士(神戸合同)、西村忠行弁護士(東播中央・故人)、藤原精吾弁護士(当時、第一法律事務所)です。錚々たる方々です。懐かしいですね?
前田先生は、民法協の会議等の打ち合わせがあるかどうかに拘わらず、しょっちゅう中神戸に来られていて、当事務所の事務職員にも気さくに声をかけ、口は悪いほうですが慣れると大変愉快かつ元気一杯でした。当時は国鉄の春闘時のストライキ、全逓中郵事件及び都教組事件判決を、8対7の僅差で逆転した「全農林警職法事件最高裁大法廷判決」、その後の昭和48年12月の三菱高野事件大法廷判決(民間企業労働者の思想信条の自由を否定)の時代で、司法反動の嵐が吹き荒れようとしていた時代です。一方、神戸市では革新統一候補として宮崎市長が誕生、民法協ニュースに「神戸に革新市政を訴えよう!」の見出しが載った時代です。前田さんは、1977(昭和52)年第15回総会で野田底吾弁護士にバトンタッチするまで4年間、大変な時代に事務局長を務められました。
私が中神戸入所直後に前田さんに初めてあった時、何を言われたかはもう覚えていませんが、「この人、ホントに弁護士かいな」と思ったのは間違いないです。その後、私が事務局長になった頃以降、労働事件(港湾関係)処理について薫陶を頂くことも多々ありましたが、それよりも長きに渡り、当事務所近く(新開地)の「割烹むらかみ」で一緒になり、よく飲みかつ楽しませて頂きました。私一人では行けない飲み屋さんにも連れて行って頂きました。前田先生は、口や態度が悪いと言えばそれまでですが、実は人情にあつい、落語に出てくる「八つぁん、熊さん」や講談(はあまり詳しくないですが)等で、自分のことはそっちのけで悪い奴らをやっつける、心やさしい人でした。記憶にあるエピソードをひとつ。
私と前田さんがよく通っていたスナックでのお話。前田さんと同期(22期)のA弁護士(故人)と同じく同期で大阪弁護士会の弁護士(この人もこのスナックに前田さんとよくきていた)に、第三者をつかって「A弁護士が亡くなったとの知らせ」と入れたところ、同弁護士が前田さんに確認をとろうとして連絡、このスナックに飲みにきた前田さんがその話を聞き、驚いた前田さんがA弁護士事務所に連絡するなど珍騒動?が起きました。後で、これが?であることを知らされた前田さんは烈火の如く怒られ(当然ですが)、どれだけ心配したかとA弁護士を諄々と説かれていました。この話の子細は相当に前のことでもあり、関係者の私以外は全て泉下にあり、記憶違いがあるかもしれませんが、前田さんの優しさを痛感して出来事であったことは間違いありません。
前田先生、先に逝かれていた先生方と楽しく飲まれていますか。大変だったと思いますが、その分まで楽しみ、かつゆっくりお休み下さい。
このページのトップへ1 前田先生の訃報を電話で聞いたのは、奇しくも前田先生と共に長年顧問を担当してきた兵庫高教組の組合事務所で委員長と話しをしているときでした。突然の訃報に、その帰りみち、バーに直行し、前田先生から「これは上手いから飲め」と言われてご馳走になった高価なスコッチウイスキーで旅立たれた前田先生に献杯しました。晩年は、体調を崩して療養されていたので、お会いする機会がありませんでしたが、走馬灯のように前田先生の軽妙洒脱な話しぶりが脳裏に甦りました。
2 1987年、私が司法修習生で神戸にやってきたときの弁護修習の指導担当だったのが前田先生でした。前田先生も修習を担当するのがはじめてで、私は名前を覚えて貰えず「おい修習生」と呼ばれながら、夕方頃からよく新開地の小料理屋に飲みに連れて行ってもらいました。裁判官志望だった私が、神戸合同法律事務所に入所する決意をしたのも前田先生の権力と対峙する姿、舌鋒鋭く相手を追及する姿、周囲に気配りをする姿、そして粋に酒を飲む姿、などその立ち居振る舞いの全てに憧れたからでした。
3 前田先生は、事務所の40年史に「闘う弁護士を志して」と題した文書を寄せ、そこには関電人権裁判報告集会での勇姿が載っていますが、まさにその弁護士としての仕事振りは、「闘う弁護士」そのままであったと思います。
この原稿を書くので確認したところ、民法協の事務局長をしていたのが、1973年から1976年までの4年間だったとのことですが、当時、笹倉さんと一緒に組合をオルグして回った、というような話しを聞いた記憶があります。
労働者の権利をまもるための裁判では前田先生と一緒に神戸港湾労働者の事件と学校の教職員の関係の事件をよくやりました。特に公立学校の教職員に対する強制配転などの攻撃に対する闘いでは、法的には訴訟で勝利するには高いハードルがありますが、法廷闘争と法廷外の組合の闘いにどう取り組んで行くのか大変勉強になりました。いま兵庫県でも学校の統廃合が問題となっていますが、1994年、地元の子どもたちが通う高校をまもるために父母と一緒にたたかっていた高校教師に対する県教委による報復・見せしめの強制配転事件(県立稲園高校強制配転事件)、職場のハラスメントが深刻な問題だと受け止められていなかったなかで、1996年、尼崎市立の高校で発生した管理職候補の教師による悪質なセクハラ事件を子どもたちの良好な教育環境と教職員の職場環境をまもるために追及した組合の教師らを尼崎市教委と県教委が結託して口封じのために多数強制配転した尼崎市高強制配転事件など、長期の裁判闘争となった事件もあります。これらの裁判闘争のなかで前田先生は依頼者や支援者を前によく「君たちには裁判を受ける権利があるのだから遠慮したらあかん」と言っていましたが、これら困難な裁判を通して強制配転の狙い、不当性を丁寧に明らかにしていくことで、必ずしも勝訴判決をとれなくても、教育委員会による理不尽な配転に対する大きな歯止めとなってきたと思います。このように労働者の権利をまもるたたかいを実践してきたのが前田先生だったと思います。
憲法25条では必ず紹介される堀木訴訟の弁護団には、前田先生が弁護士になって間もないときから参加し、特に支援する会の事務局長として茶話会を開いて原告を支援したと聞いています。この支援者との交流の方法は、その後の憲法25条を巡る老齢加算廃止取消訴訟や生活保護基準引き下げ取消訴訟などその後の生存権を巡る兵庫の裁判にも引き継がれています。
とにかく型破りで豪放磊落なように見えて実は繊細な気配りのできる、そして、誰彼と相手の地位や身なりで差別を一切しない、弁護士の使命を体現したような弁護士らしい弁護士でした。
4 私は前田先生には私生活でも大変にお世話になりました。仲人もしていただき、私が弁護士になった5年目に体調を崩したときには、伝を頼って大阪の心臓専門医まで紹介していただきました。そして、何より、前田先生は酒と食の師匠でした。前田先生と一緒の弁護団の思い出は常に前田先生紹介の旨い料理と酒の店の記憶とセットになっているのが不思議です。前田先生は、カラオケは玄人はだしで、「浪花恋しぐれ」「浪花人情」は絶品でした。もう前田先生の愉快ななかにも含蓄のある話しとカラオケを聴けないのはさみしい限りです。
前田先生のご冥福をお祈りし、少しでも前田先生の後に続けるように生きていきたいと思います。
このページのトップへ